ごきげんよう。
廊景谷シイチです。
「宗教」という言葉に抵抗がありがちな日本人も、実は宗教に大いに染まっているのだということを、私は声を大にして言いたい。
私は、生まれて最初に触れる宗教が「親」だと思う。
もちろん、例外も多分にある。
この場合、育ての親という方が適切かもしれない。
親が「教育」「しつけ」だと思って子にしていることは果たして本当に子のためなのだろうか。
「自分の子どもの育て方は間違っていなかったか」
この答えは非常に難しい。
ただし、この発想が出るだけ私はマシだと思う。
子どもの耳から入る言葉、目に入る情景、感じる印象、全てその親が「選んだ」それらである。
ウッセーな!
死ね!
馬鹿野郎!
「あの人は、言葉が汚いなぁ」と思うかもしれないが
その言葉を「選んでいる」のはその人自身なのである。
子どもが泥だらけで帰ってくる。
「ちゃんと洗ってから入ってこい!」と罵るのか、有無を言わさずドアをバタンと閉めてしまうのか。
複数の選択肢(可能性)がある中で、それを選んでいるのはあなたである。
そして、子どもはその情報を受信する。
「ああ、なるほど。泥だらけで入ってきた人には、あんな対応をしたらいいのか」
子どもは親と同じ選択をする可能性が高くなる。
多少先天的な要素(前世や遺伝情報の伝達)はあるかもしれないが、真っ白な状態で生まれてきた子どもは受信した情報の色に染まる。
最初に「家庭が宗教なんだな」と気づくきっかけ。
それは、他の宗教、つまり他の家庭の情報を得ること。
「僕の家のカレーには必ずピーマンが入っているが、他の家では入っていないらしい」
他の家の情報を集めて、比較してみて初めて気づく。
次に大きく気づくポイントとなるのが「宗教戦争」である。
これは特に共同生活や結婚を機に同棲し始めると勃発する。
頭の毛先から足のつま先まで存在する「自分の当たり前」同士がぶつかり合う。
「AだからBなんだ!」と主張するも、その家の人たちもそれを疑ったことがないからBecause(なぜなら)の前と後ろが噛み合っていないことに気づくこともない。
妙に「歴史」や「伝統」として残ってしまっているから、それが全てだと思い込みやすい。結婚をするまでの20〜30年間培ってきた歴史は意外と根深い。
人は何かしら物事を判断する軸をもっている。
その軸が大多数の人々に受け入れられるのか。
是正するためには気づく必要があるし、気づくためにはチャンスが必要になる。
「心の底からこれが絶対正しいんだ!」と自分の当たり前をぶつけてみる。
ぶつかったときに、気づくか気づかないかはあなた次第。
自分が理不尽で根深い宗教に入信していることに気づけたら。
世界ジュウで分かり合えるヒトが50人ぐらい増えるかもしれない。
さてと、私も「金曜は徹夜する教」に脱教届を出そうかな。
シイチ