ごきげんよう、廊景谷(ろけや)シイチだ。
テレビを見ていると
戦後70年を迎える我が国日本は、核戦争を糾弾している水面下で、戦争を渇望している軍需産業勢力の動きも活発化してきているように思える。
景気回復、経済発展…自分たちの生活のために、どこかの国で血が流れても仕方がない…と言わんばかりのようにも見える。
何が正しいのか?
正義とは?
善とは何なのか?
かつて、私はいくらか宗教団体を見て回った時期がある。
そこでいろんな話や素朴な疑問をぶつけて、問答のようなことをしていた時期があった。
ある意味、闇中問答だったのかもしれない。
どの団体でも必ず聞く質問の一つに「善とは何だと思いますか?」というものがあった。
人に感謝の辞を述べられれば良いことなのか?
尊厳死は良いことなのか?殺人ではないのか?
同じ行動でも善にも悪にもなりうる。
「善を積めば徳になる」というが、自分のために行う善は他者のためなのか?
殺人を肯定(善と)する考えもあったし、殄戮した人物を英雄扱いする書物まである。
「正義」とは「善」とは何なのか?
二〇一五年五月三日現在の私は
善悪の判断はNMR(核磁気共鳴)と似ているのではないかと考えている。
山本七平氏の「比較文化論の試み」の一文を引用させていただく。
“八木誠一という神学者は『日本人の神概念とヨーロッパの神概念』という本をドイツで出された方なんですけど、その方の書かれたものに、ヨーロッパ人の神概念というのはむしろ動詞的であって、言うならば万有引力といった感じが強い、と言われています”
万有引力のように、目には見えない大きな(神の)力が働いている。
これは、宗教観念に乏しい日本人にも十分感じられる「空気」というものである。
電車内で大きな声で電話で話す人に対して、嫌悪感に似た感情の共鳴が独特の空気を作り出す。
そこには目には見えない力が働いていて、その電車内では”電話で大声で話す人=悪”と判断される可能性が高い。
先述したNMRとは、まさにこれである。
聞きなれない言葉だと思うから説明しておく。
NMRは有機化学・薬学・生理学分野などで使用される分析機器のひとつで、スペクトルから分子を構成する原子と原子のつながりを観察する装置である。
原子核は正電荷をもっており、核磁気モーメントが発生し回転している。そのため、通常原子核はバラバラの方向を向いている。
イメージ的には渋谷スクランブル交差点のような状態。
原子核は自由気ままに様々な方向を向いて動いている。
そこに超強力な磁場をあてる。
すると、自由に動き回っていた原子核たちは2種類の方向に整列させられる。
↑↑↓↓↓↓↑↑↑ ↑磁場方向
あてた磁場と「同じ方向に向く原子核」と「反対を向く原子核」の2種類である。
ここにラジオ波領域の電磁波を当てて、エネルギーを吸収・放出するときの共鳴の様子を見て原子がどのような状態で存在しているかを分析している。
これは我々が暮らす地球も同じで、重力(強い磁力)が働くから「上」と「下」が存在している。
つまり、何らかの強大な力と同じ方向性をもっているものが「善」で、それとは反対に向かっているものが「悪」とされるのではないかと私は考えている。
ある意味、多数決もそれに含まれるかもしれないが、一神教やトップダウンの企業といった1つの存在が大きな力をもっている場合もあるので数は無関係である。
人間はとても楽をしたい生き物なのかもしれない
大きな力の奴隷となって生きた方が何も考えずに、無駄なエネルギーを消費せずに生きられる。
長く生き残り、自分の遺伝子を残すための戦略なのかもしれない。
先述したNMRでも磁場とは逆方向を向く原子核はエネルギーを大きく吸収・放出する。
「郷に入っては郷に従え」というが、先人たちの知恵の背景には無駄なエネルギーを消費せずに生き残ることを最優先に考える貪欲さがあるのかもしれない。
最後に
これを読んでいるあなたにとっての「善」をもう一度、見直してみて欲しい思う。
「善」とは何なのか? 何に従っているのか?
どうして自分はその行為を「善」とするのか?
逆に、罪悪感はなぜ生まれるのだろうか?
本当に罪だと感じる必要があるものなのだろうか?ウソッパチの罪悪感ではなかろうか?
どんな力も受けない独自の善(理論)を見いだせるよう、私も精進致す所存である。
シイチ