分離された部分の意図的膨張と生霊と再定義の話

「分離された部分の意図的膨張=誇張」の話。

分離された部分の意図的膨張は僕が好きなハリウッドザコシショウさんの「誇張モノマネ」であり、これが過剰になると生霊のような存在になります。

例えば、他者との差別化を図ろうとキャラ作りをしたとします。何でも良いのですがとりあえず「ハンバーガー王子」と名乗ったとします。ハンバーガーのことなら何でも聞いてくれと言わんばかりに、SNSやブログのプロフィールをハンバーガーで染め、発信する情報も「今日もハンバーガー美味しかったぜ!」とハンバーガーキャラを作ります。街に出ると「あ、ハンバーガーの人だ!」と指を刺され、雑誌のハンバーガー特集でコラムを書いたり人々の注目の的に。

しかし、この人はあくまでキャラとしてのハンバーガーなので、普段は刺身も食べるし、ご飯も食べますし、さつまいも掘りなどもするかもしれません。つまりこの人物にとっての「ハンバーガー王子」という人格はこの人物の「部分」であり「一部」なんです。

「ハンバーガーキャラ」を演出するにはこの「部分」を意図的に膨張させる必要があります。つまりこれが「誇張」です。男性向けのエロ漫画とかだと、女性の胸や尻などを異様に誇張して描写されます。太古の昔から人々はシンボルとして「部分の誇張」をよくやってきていますから、今に始まったことではないので、エロ漫画の誇張が特段異常なことでもありません。

「部分の意図的膨張」は自分の部分をより際立たせるために行われるのですが、問題は「分離されているかどうか」なんです。例えば、実際にハンバーガーを毎日4食は食べて、常にハンバーガーのことを考えているハンバーガー狂の人もいますよね。そういった「キャラ作りではないハンバーガー好き」と「キャラ作りとしてのハンバーガー好き」の違いは一体何なのか。その答えが「分離しているかどうか」なんですね。

「ガチのハンバーガー好きの人」にとって「ハンバーガー」は生活の一部です。キャラ作りのためにやっているわけではないので「ハンバーガー好きな自分」と「日常的な自分」は限りなく一体化しています。

一方、キャラ作りのためにハンバーガーキャラをやっている人は「日常的な自分」と「他者から求められて作り出したキャラクター」が一体化しません。分離しているんですね。ハンバーガーキャラの自分を特別視すればするほど、それは「分離」していきます。特「別」ですから「分けて」考えているのです。

本当にハンバーガーが好きな人にとっては「ハンバーガーを食べること」は特別なことではないんですね。日常であり、馴染んでいて、同化しているわけです。つまり「違和感」がないんですね。

この「分離されて意図的に膨張させた部分(キャラ)」というのは際立たせて分かりやすいため大衆化しやすいです。名刺や肩書きに書きやすいですし、手っ取り早く覚えてもらうためのメリットはあるでしょう。

「あの人っていつもハンバーガーのこと考えてるんだよね」「あの人ならハンバーガーのこと何でも知ってるよね」といった印象を植え付けることで、一時的な仕事や注目は集められるでしょう。しかし、それは「日常」ではないので「継続しにくい」という点があります。「毎日が特別」というのは非常に疲れます。

たまにある特別だから良いのですが、ハンバーガーが日常的でもないし自分に馴染んでもいない人にとって、ハンバーガーを食べる行為やハンバーガーについて尋ねられるのは、最初はいいものの途中から苦痛に変わってくるでしょう。

先日メルマガに「続くとは何か?」というコラムを書きましたので一部抜粋します。

 

続けること、まとまりを大きくするためには「均一性」や「同一性」が必要になってきます。

「いつもと同じようなこと」「昨日とそこまで変わらないこと」というのは一見すると蔑ろにされがちですが「続けるため」には非常に大事なことです。

先月あなたは何に夢中になっていましたか?それは今週も同じことをやっていますか?

何か始めようとして「違和感があること」をしませんでしたか?

「終わりそうなこと」「別れ」「うまくいかないこと」

これらは「不均一さ」が原因になっているかもしれません。何かアンバランスになっているのかもしれません。

積み木を積み上げるように、なるべく「均一なこと」を意識して行動していく。

「続けること」で積み木はどんどん高くなっていきます。

そしてその積み木は気づいたら「思わぬところ」に到達しているかもしれません。

「無理しないでね」ってことですね。少しずつ。自然体が一番です。

ポン通Vol.49より引用

 

偏りが大きくなると、バランスを崩し続かなくなってしまいます。

一番いいのは「同化してしまうこと」です。

その「部分」と完全に自分が同化できれば、バランスを崩すことはありません。

服を手に持つよりも、服を着たほうが服を長く保持し続けることができます。

 

つまり「特別なキャラ付け」=「分離された部分の意図的膨張」というのは、どこかで破綻する可能性が高く、場合によっては生霊のように、特定の部分のみがあなたから分離し独り歩きしたりするようなことが起こるかもしれません。

キャラ作りというのは非常にエネルギーを使うはずです。ハンバーガーがそこまで好きでもないのに、ハンバーガーを食べて、誰からもハンバーガーキャラだと認識され続けなければいけないわけですから、どこかで歪みが出るかもしれません。

しかし、部分と全体に一体感があり、自然体になれば話は別です。違和感がないわけですから、省エネで継続性があります。

このような分離された部分の意図的膨張は「部分ありき」になってしまっているがゆえに起こる行動です。特定の部分(キャラ)に頼ることで、自らの存在をアピールするわけですから、それを以上特に考えなくていいわけです。ハンバーガーキャラというわかりやすい部分を見せていれば、自分(本体)はそれ以上工夫したり磨いたりする必要はありません。自分は「ハンバーガーキャラだよね」と何度も繰り返し定義するような行動を取れば良いだけなので、非常に楽です。

自分に嘘をついている、誰かに嘘をついているから確認するように「再定義」したがるのです。そして自分に嘘をついているというのはおそらく特定の部分に固執している状態で起きてきます。「私はこんなはずではない」「私はこんな人間だ」と、部分が全部になっているときに起きてきます。自分で自分の可能性を狭めている…というか。

 

僕は普段から黒い服をよく着ていますが、プロフィール写真のようなメーテルっぽい格好を普段からしているわけではありません。

 

これが「自分のキャラだ」と意図的に膨張させる気もないので、好きな時に好きな格好をしますし、ブログやツイッターに普通の格好の自分も載せます。記事もツイート内容も特に「分離された内容」を書いているわけではなく、自分が日常的に考えていることや普段の生活を書いているので特に特別なことをしているとは思えません。普通なんですね。

僕は「この人キャラ作ってるのかな」という「違和感」のようなものを感じるとちょっと悲しくなるというか、もったいないなと思います。あとはちょっと仲良くなれるかなぁと思ったりもします。

どこまでいってもお互いの本音ってわかりませんけど、「分離された部分」を見せられると「なんだかなぁ」となり、その人の分離されていない部分を探したくなります。たまーに気合を入れるからいいのであって、普段から気合を入れてたら疲れますよね。あなたがこれを読んでいる時間は何時かわかりませんが、今日はもう寝ましょうか。

おやすみなさい。

にしけい

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書いている

西田 圭一郎

1987年富山市生まれ。工学修士。 商社の開発営業職を辞めて、占いや相術を生業にしています。本と旅とポケモンと文章を書くことが好きです。黒も好きです。どの国に行ってもスチューデント扱いされます。詳しくはこちらから。

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