虚(きょ)と実(じつ)についての虚と実

歩きながらずっと考えていた。虚(きょ)と実(じつ)について。実際やってみないとわからない。これがスタート地点だった。虚と実。僕は虚が好きだった。空想、妄想、想像。無いものを作り出す。実とは無縁の世界にいたと思う。というか「実」に対しての執着が弱過ぎて、そんな自分が嫌いだったから科学という「実」まみれの世界に憧れたのだと思う。実まみれの世界に入って僕は病んだ。虚が好きだったから。「実」なんかどうでもよかった。研究で成果を残すには「実」に拘らなければならない。実験。実験。実験。

実:十分にある。みちる。中身が備わる。果実がみのる。
験:結果が形をとってあらわれること。証拠になる事実。しるし。あかし。ききめ。

虚の世界の住人だったのに、真逆の実の世界に入ってしまった。「実」にどっぷり浸かった。科学の実験というよりも自分を使った人体実験に近いものだったのかもしれない。いつも「実」で痛い目を見てきた。手相占いでもそうだった。本に書いてある情報を心底信じてそのまま本に書いてある通りをアウトプットした。そしたら全く当たらなかった。いつも実は僕に対して厳しかった。心底へこんだ。「実」に打ちのめされた。でも、現実を見たからこそ、試行錯誤が生まれた。虚に逃げたくなかった。なぜ当たらないのか。どうやったら当たるのか。現実のデータを集めることに没頭した。この試行錯誤の結果、新たな思想や概念がたくさん生まれた。手相も当たるようになってきたし、大嫌いだった「実」が好きになった。フラットに。素直に。現実を見る。誰かが言った言葉や言説を疑い、自分が見て感じて「実感」したものだけを信じる。だから、気学もデータを集めた。先生に教わったことを忠実に信じて検証した。やっぱり手相と同じで「予想通り」の結果にはならないことがたくさん出てきた。先人たちの言説は「虚」だったのか。でも、手相と同じで「実」を見つめ続けていたら気学も同じように何か法則や規則性に気付けるかもしれない。そういう魂胆があっての歩いて引越しだった。やる以上は「オーバーなデータ」が必要だった。本当に「気学」というものは「実在」するのか。あるのかないのかを確認するために大袈裟なデータである必要があった。歩き始めたらまた「実」の世界に飛び込んだような気分になった。想像していたよりも自分は歩けなかったし、でも最終的には歩けるようになった。Googleマップにも何度も惑わされた。すごく「虚」に偏っていたのだなという実感が得られた旅だった。頭でっかちで、知識や理論武装していたのだなと気づいた。歩いていて「虚」は「実」に比べると脆弱で全く役に立たないのではないかと思索した日もあった。知識や情報をただ集めてインプットするだけでは全く何の役にも立たないし、本質を掴めないのではないか。「肉体の枠」をすごく感じさせられた旅でもあった。なんて不便な肉体なのだろう。自転車は自分が脚を動かさなくても進むし、坂道も車輪が回転するから前進できる。何度も僕を追い越して行った自転車に乗る人々を羨んだ。徒歩は自分の肉体を動かさないと前進できない。肉体を動かすことをやめてしまったら止まってしまう。自転車にすら「虚」を感じた。実際に歩いてみて歩く前の自分はやはり「虚」に傾倒していたのだなということに気づいた。日常的に言葉や文章に触れ合うことの多い僕の仕事は今思い返してみれば「虚業」そのものだった。このブログも虚業である。また僕は虚の世界へ逃げていたのかもしれない。虚に偏ることは本当に楽で、現実を見ずに死んでいけたら本当に幸せだと思うことが山ほどある。何度も「虚」と「実」について考えた。僕はこうして歩いているが、僕が歩いていることが誰にも伝わらなかった場合、僕が歩いたことは「実」になるのだろうか。誰にも認識されなかった場合、それは「実」なのだろうか。歩いている様子をTwitterやブログや動画で発信し続けた。ここで気づいた。僕が「歩いた」という「現実」は実体性の無い「虚」によって伝えられるのである。つまり虚によって実が作られることになる。何とも不思議な気持ちになった。「僕が”引越し中”というのぼりをもって歩いていることを信じられない」という人物がいたらどうしよう。本当に歩いているのか?途中でタクシーに乗っているんじゃないか?そんなことを言って問い詰めてくるヤツがいたら…と想像すると勝手に殺意が湧いた。じゃあ見にこいよ。一緒に歩いてみろよ。ずっと僕を監視し続けてみろよ。実は今回の旅で僕の原動力の一部となったのは「怒り」だった。「実際にやっていないヤツに何も言う権利はない」という現実に超傾倒した結果、言葉や知識に偏っていた自分に怒りが湧いたし、「口だけ」の人間を強烈に憎んだ。もしかしたらどこかの山で鬼にでも取り憑かれたかもしれない。歩きながら「口先だけの人間たち」を憎み、僕は怒っていた。「じゃあ歩いてみろよ」という謎の怒りと、僕が途中でギブアップしたら「やっぱり途中で諦めたか、やーいやーい、お前は口先だけの人間で狼少年だ!」と罵ってくる仮想敵を作り出し、そんなやつらに負けてたまるか!意地でも歩き切ってやる!という闘争心を生み出して歩き切った。たぶん普段使わない肉体を酷使しすぎて限界だったのだと思う。我ながら本当に醜くて汚い心だったと思う。しかし、ここでお気づきのように「仮想敵」は「虚」なのに「実」に影響を与えている。つまり「虚」は「実」を作り出す。途中、富士市あたりでお腹が好き過ぎて「クリーニング」という看板の文字が「ハンバーグ」に見えて、お腹が鳴った。肉体(実)を維持するために、自分にとって都合のいい「虚」を作り出しているわけである。現状(空腹)が虚(見間違え)を作り出し、その虚に反応してまた腹の虫が泣き、肉体(実)を動かすという現象を引き起こす。また、やはりTwitterやSNSで「がんばれ!」とか「応援してます!」といった言葉をもらえると非常に嬉しかったし、怒りとは違った歩き出す原動力になった。実から虚が生まれて、虚から実が生まれる。虚と実は互根の関係であることを強く実感したのだ。そうなってくると「虚」と「実」の境界線はどこにあるのだろうか、という疑問も湧いてきた。自分が存在していることは「虚」なのか「実」なのか。「実在」を証明するには「虚」が必要になる。そうなってくると、自分の存在は「実」でもあり「虚」でもあるし、「実」でもないし「虚」でもない。そういうことなのかもしれないと歩きながら考えていた。

陽は虚で、陰は実。天は虚で、地は実。虚は不確実性で、実は確実性。その間で生きる我々はやはり虚と実のハイブリッドとも言える。虚は可能性を生み出す。だけど、その「虚」もベースとなる「実」が必要だったりする。でも、もしかしたら「全部虚だったりして」とか考えたりもする。誰もいない山道を彷徨っているとき、最近の世の中は「実」よりも「虚」が溢れてきているのではないかと感じた。肉体や物質よりも精神や言葉の世界といった「虚」の世界に入ってきている。それはこうやってネットが普及したことによる恩恵もあるかもしれないし、物質や食べ物といった「実」が飽和した世界だからこそ、もう伸び代は「虚」しかないと感じて、虚の方が目立っているのかもしれない。「実」は十分に行き渡った世界だからこそ「虚」がのびのびと活躍する。車も自転車もない、明日の天気はどうなるのか?明日自分の肉体はどうなっているのか?という「不確定なものが多い状況」になったとき、「実」を心から求めたし、感謝した。インフラや物流システムが整えられて「実」が当たり前のようになっている日本。この恵まれた日本の現状に感謝した。

虚がありふれすぎて、中には「固定化された虚(きょ)」「実の顔をした虚」もたくさんある。これらは「実」っぽいんだけど、実際は違っていたりする。実だと思い込むことは非常に楽で、それ自体が虚なのに現実だと思い込んで楽になろうとすることは多々あって。文字通り「現実逃避」なのだけれど、現実逃避している本人はそれが現実だと思い込んでいるから、現実逃避しているとは全く思っていない。「自分は現実を見ている」「自分は本物である」と思い込んでいることこそが「虚」であり、やっぱり言葉って「逆の現実」を映す鏡でもあるのかなと思うこともある。「お金はいらない」と言っている人に限って、お金に囚われていたりする。なので「言霊(ことだま)には力がある」という人ほど、言葉にしなきゃいけないほど当たり前じゃ無いから、言霊を信じていないことになったりならなかったり。

「虚」と「実」

どっちかに偏った方が楽なのだけれども、たまに反対側に思いっきり傾倒するのも悪くないよね。虚と実をいったりきたり。本当に地球は慌ただしい星だなあ。

にしけい

にしけい (西田圭一郎)

1987年富山生。工学修士。商社の開発営業職を辞めて、占いや相術を生業にしています。三児の父。本と旅とポケモンと文章を書くことが好きです。学生気分が抜けません。詳細はこちらから

にしけい (西田圭一郎)

1987年富山生。工学修士。商社の開発営業職を辞めて、占いや相術を生業にしています。三児の父。本と旅とポケモンと文章を書くことが好きです。学生気分が抜けません。詳細はこちらから

小学生でもすぐに読める風水・地相・家相の本を書きました。読まれた方の頭の片隅に「風水・地相・家相ってこういうことをやっているのか」というイメージが少しでも残れば幸いです。

手相の入門書としてたくさんの方々に読んでいただいる1冊です。

日本で初めて花札を占いのツールとして体系的にまとめた入門本です。気持ちや感情の変化を読み取ることに長けた占いです。

方位作用?吉方位?凶方位?距離…気学の気になることを身をもって実験・検証した記録を綴った1冊です。失敗や家族を巻き込みながらも得られた「気学の本当のところ」をまとめています。

「手相占い」というものをバラバラに分解してこうなっているのかと観察する1冊なので、正直手相占いに夢や幻想を抱いている人は読まない方がいいです。でも、それが夢や幻想だと気付きつつある人には「薄々気付いていた曖昧なこと」を完全にぶっ壊してスッキリさせる1冊です。

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