疑うことで生まれる広がる自分の世界

自分がやりたくない大変なことに「お金」を出す。何かを得たいけれど、それを得るための手段や方法や時間などのハードルを解消するために「対価」を支払う。そこには「期待」があって「希望」がある。好きなアーティストに会って生で演奏を聞かせてもらうには、自分のコネやツテを総動員して、そのアーティストにたどり着いたとしても演奏してくれるかどうかはわからない。

しかし、そのアーティストのライブのチケットを手に入れれば数千円から数万円を支払うだけで、最高の時間に浸ることができる。自分でそのアーティストに直談判して、ライブステージを用意して、楽器や機材を搬入して…という煩雑な諸般のハードルをクリアしてくれる「代行者」がいて、彼らの労力を分割してライブ参加者が負担する。

あなたにそのような専門知識がない、ツテやコネがない場合は、あなたは代行者に価値を感じてお金を支払う。これはあなたが悪いのではなく、専門家やスペシャリストがその事柄に取り組んだ方が効率が良くそれを達成できるのであればそれに越したことはない。ある意味、その代行者は「知識」や「機会」といった「資源」をもっていて、「それを得られない人たちに分配した対価をもらった」というだけの話なのです。

なので、どちらかが偉いというわけでもなく、その代行者たちも頂いたお金で牛乳やお肉をスーパーで買って食べて生きているし、トイレットペーパーでお尻をふき、バスに乗り、病院で検査を受けることができるのです。互助オブ互助の関係で成立していて、結構フリーランスが会社員を「ダメなやつらだ」と見下したり、会社員であることに劣等感をもつ人もいたりしますが、何のことはなく、すべては「互助」の関係なので、あなたがした何かしらの仕事がめぐりめぐって好きなアーティストの日常を支えていたりするのです。ここに職業貴賤は無関係なのです。

なので、自分ができること・自分が得意なことをしていれば、自然とそれは循環の中に組み込まれます。人の死すら、循環の一員なので、生きていても死んでいても誰かに迷惑をかけているし、誰かに迷惑をかけられています。なので、自分ができることを精一杯やればそれでよくて、それで十分貢献しているのです。なので「自分で全部やらなきゃ」と思わなくてよいのです。

しかし、ひとつだけ「これは自分でやらなきゃマズいでしょ」というものがありまして。

それは「自分で考えること」です。これも老若男女貴賤職業問わず、できている・できていないの「差」があります。

ここで「自分は自分で考えて生きている」と強く主張できる人は、おそらく何も考えていない可能性が高いです。なぜなら、自分で考えれば考えるほど「本当に自分で考えているのか?」という疑問がついてまわるからです。あなたの思考や意見は本当に完全に自分の意見でしょうか?誰かの意見や考えに影響されていないでしょうか?100%自分の意見というのは本当でしょうか?流されないで生きるなんて本当にできるのでしょうか?よくわからなくなってきます。

おそらく「自分で考える」というのはこの「疑い」がスタート地点にあるような気がします。今の自分は本当に最適な自分なのだろうか?他にやるべきことはたくさんあるのではないだろうか?

「疑う」という行為をしなくなったとき、おそらく「自分で考えていない世界」に入っていきます。家畜同様に「餌」を与えられるだけの世界です。口をパクパクとあけて「こっちにもご飯ちょうだいよ〜」と待っている…そんな世界なのです。これは宗教であり洗脳です。何度も言うように、老若男女貴賤職業問いません。疑わない人は何をしていても疑わないし、疑う人は何をしていても疑う。自分で考えるというのは「疑う」ことから始まります。そして、疑った結果自分なりに何かしらの行動を起こし自分なりに確証を得た人が「自信」を得ます。

なので「疑うこと」は決して悪いことではありません。逆に「信じることが悪い」ということでもありません。疑って、自分なりに考えた結果それを信じるのであればそれで良いと思います。

しかし、はじめから疑わずに、何も考えず、すべてを鵜呑みにすることは、一歩ずつ家畜に近づいていきます。家畜が悪いわけではありません。家畜には家畜なりの幸せがあります。しかし、気づいたらお肉にされたり、卵を取られたり、「選択肢」を奪われている可能性が高いです。

もちろん考えた末「やっぱり家畜がいいわ」と決心して選んでいるならそれはそれでいいと思います。問題は自分で「納得できるか」です。「何かが起きたとき」に納得できるかどうかです。自分はこういう情報を元にこういう考えでこう判断したと自分で納得できるなら、それが一番大事です。

自分で納得して出した答えなら、どうなろうとも「文句」や「批判」は生まれません。覚悟が決まっていない人ほど「文句」が出ます。自分が納得のいくまで考えていないからです。疑っていないからです。疑って疑って納得のいくまで考え抜いた末に出した結論なのであれば、文句は出ません。何も疑わずに納得していないうちに行動したからこそ不平不満が出るのです。覚悟を決めるためにも疑う必要があります。

「疑うこと」はエネルギーを使います。騙されたくないからです。騙されたと思いたくないからです。自分の判断が正しいと思いたいからです。でも、何度も言うように「疑うこと」や「疑問にもつこと」をやめてしまっては、文字通り「言ったモン勝ち」の世界になります。

全てを疑えとは言いません。せめて自分の興味ある世界や好きな世界だけでも疑ってください。人を疑うのではありません、「状況」や「情報」を疑うのです。何度も言います。自分が好きな分野だけでいいです。そしてその分野を疑いまくった人がその分野の専門家になります。そして、その専門家の言葉すら疑ってください。本当にこいつは正しいことを言っているのか。疑うことが愛になります。その愛は誰に向けられるのか? それは自分です。

疑うことをしてきた人、疑うことをしてこなかった人。この差は大きく、ときには言葉が通じないほど。両者を断絶させるほど。同じ言語を使っているにも関わらず、言葉が通じないのです。文字は読めるけれど、意味を理解できない。このようなことが起きてきます。本を読んで理解できなかったとき、会話が成立していないなと感じたとき、自分の考えや意見を疑ってみてください。なぜ理解できなかったのか、なぜ通じなかったのか。自分に落ち度があるのではないか、相手の意見を汲み取り違えていなかったか。そこに対話が生まれます。一番信じているものほど、当たり前だと感じた発言ほど疑ってください。

疑うことで破壊が起きます。何を破壊するか?それは自分のキャパの限界です。自分の家の塀を破壊するようなものです。一度壊すことで、外のからの情報が入ってきます。そして、改めて塀を作ります。もともとあった塀よりも少し自分の敷地広くなるように。そうすることで自分の知識や余裕のキャパが大きくなります。疑う→納得する。この作業で自分の敷地はどんどん大きくなっていきます。

ということで、今日の記事を理解できない人もいるかもしれませんから、僕は自分の記事を疑ってみますので、一緒に記事の最初から読んでみましょう。

にしけい

↑本当はにしけいが書いていないかもしれません!ニセケイかもしれません!

↑こんなことを書くのはにしけいぐらいです。

にしけい (西田圭一郎)

1987年富山生。工学修士。商社の開発営業職を辞めて、占いや相術を生業にしています。三児の父。本と旅とポケモンと文章を書くことが好きです。学生気分が抜けません。詳細はこちらから

にしけい (西田圭一郎)

1987年富山生。工学修士。商社の開発営業職を辞めて、占いや相術を生業にしています。三児の父。本と旅とポケモンと文章を書くことが好きです。学生気分が抜けません。詳細はこちらから

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