ただ死んでいくために生きるのか?居心地のいい環境の話

「家」とか「家族」というのはときとして居心地のいい環境になります。

土日に子どもとカートをひいてショッピングモールを買い物して、また次の日から仕事に行く。

 

 

慣れた会社や「いつもの」メンバーも、非常に居心地がいいです。

「ああ、またあの人があんなこと言ってるよ、まったく困ったもんだな〜何も変わらないな〜あの人は」

昨日と同じような明日が続くことの安心感は大きいでしょう。

「この前やったよな、この仕事」というのもだいたい先が見通せますので、安堵感が強いです。

あと「居場所」があるというのは非常に甘美なんですよね。

存在を許容してもらえる、受け入れてもらえる。

自分のことを「すごい」と言ってほめてくれる、この人と話していたら居心地がいい。

自分の方が優れているから、ちょっとした優越感にひたれる。

「自分がいないとダメなんでしょ」と思える関係性なんて、とっても甘美です。甘美中の甘美です。

友達とかカップルとか家族ってもしかしたらそういう「相手より優れていることを実感できる」というメリットもあるのかもしれません。すごくいやな言い方したらですけど。

自分の存在を容認してもらえる、自分で自分の存在を確認できるわけですから

居場所があるというのはとにかくとっても甘美です。

 

誰だってずっとこの甘美な世界、温かい湯に浸かっていたいです。

寒い日に浸かる風呂のように、ジワーッと身体中に染み込む心地よい熱。一歩外に出れば寒い。ずっと浸かっていたい。

でも、僕はダメでした。

「安心」している自分に恐れが生まれました。居心地のいい会社や家族や現状に満足している自分が怖くて怖くてしょうがなくなりました。

このままぬるま湯につかったまま死んでいくのか。そんなことを考えるといてもたってもいられなくなって、死んでいるのと同じでした。

「生活」はしているけれど、「生きて」はいませんでした。

人によってどの程度で満足するか「居心地のよいぬるま湯」に浸かるかは違います。

40度でぬるま湯だと感じる人もいれば、60度でぬるま湯だと感じる人もいるかもしれません。

今の生活や、誰かとの関係性に「居心地がいいな」と感じたら、それは危険かもしれません。

なぜなら「居心地がいい」と客観的に見つめる自分が発生している時点で、それは余裕がある状態ですから、ぬるま湯なのです。

チャレンジするのに年齢なんか関係ないんですが、やっぱり体力気力視力記憶力がまだ十分残っている若いうちは特にぬるま湯につかっていると

これらが落ちたときにチャレンジしようと思っても「チャレンジしない癖」がついてるとなかなかチャレンジできなくなります。

何かを残すために生きているわけじゃないけれど、僕はやっぱり生きていたい。ただ死んでいくのではなく、生きていたいのです。

 

僕はとにかく集団行動とか協調性とか規則性とか求められることが苦手なので、それを避ける生き方もいいんです。

 

でも、たまにはそういうのもやらないと殻を破れないので、会社を作るという一連の所作はけっこう経験値アップになりました。

きつかったけど、終わってみたらとても「生」を感じられた出来事でした。

あなたは最近「生きて」いますか? それとも生活していますか?

僕はただ死んでいくために生きたくない。生きたまま死んでいきたい。

あと200年、生きたまま生きていきたい。

にしけい

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