「”賢く見える風”のガラクタを集めて着飾ってもあんまり意味ないよね」って話

不思議なことを言うかもしれませんが、言葉の意味ではなくてその奥にある情報を読み取るタイプの本がありまして。

知識情報、文字列情報としてではなく、その奥にある「言いたいこと」を読み取らないと読めない本です。

こういった本は文字や情報通りに読んでも「よくわからない」とか「物足りない」と感じてしまうのですね。

このような「知識情報の奥を読み取るタイプの本」を低く評価する人の傾向として「知識情報の肥大」の方向性に進んでいる人が多いように見えます。

知識があると「頭がいい」とか「賢い」とか「人生が豊かになる」そんな風に思えるかもしれません。

確かにアウトプットの面では語彙が多くなるので表現の幅が広がります。

「ああ、なんかこの人は物知りそうだな…」「自分が知らない言葉を使いこなしてるからすごい人っぽいな」という風に見えます。

しかしながら、知識肥大は役に立たないガラクタをガシャガシャとたくさん身に纏って歩いているような感じです。装飾品でありハリボテなのです。

もっている知識情報を「どう活用するか?」「どう生かしてきたか?」といった能動性がないと、ほとんどガラクタになります。

そして、冒頭に挙げたような「知識情報ではない面から読む本」の真意を読み取れず、ただただ「知っている情報しか書いていない本は価値がない」と切り捨ててしまいます。

「知っていること=善」なので、知識マウントを取ることで優越感に浸り、自己顕示欲を満たします。なぜ知識を欲するかというと「知識=優越感に浸るための道具」なだけであり、その先の「どう生かすか?」はどうでも良いのです。

 


本は誰がどう読もうが、何を感じようが自由です。

ただし「よくわからない本」というものに出くわしたときに、先述したような「著者の息遣い」を読み取るタイプの本があることをなんとなくでいいので頭の片隅に置いておいてください。

こういった本は知らない国の言葉で歌われた音楽を聴くような感じで、歌詞や意味を追っていくとよくわからなかったりします。まるで楽譜やリズムを楽しむような本なのです。

で、そのような本は、知識や蘊蓄を並び立てて誰かよりも優位に立ちたいだけの人たちにはずっと理解できないと思います。

 

知識や情報をもっていることに価値はあるか?

幅広く肥大すればするだけ、薄っぺらくなっていきます。

そして、これは何も知識情報マウントの方向性だけに限らず、「優越感に浸りたい」とか「心配してほしい」とか「相手を怒らせたい」とかそういった「誰かのエネルギーを吸い取ること」に心血を注ぐ人たちのほとんどが「装飾の肥大」方向に進んでいます。

手っ取り早くエネルギーを吸えるので、どんどんハリボテを作って装飾していくわけですね。

というようなことを書きながらも、過去のブログ記事を読んでいると自分もそんな時期があったなーと反省を込めて書いています。「知識情報をもっていること=善」で「知らないこと=悪」みたいな。

ネットの普及もあって、個人でも大量の情報を得ることができる時代になりました。となってくると「知っている」とか「情報をもっている」というだけでは優位性が薄まってきます。何の自慢にもならなくなってきます。

だからこそ「情報の奥にある何か」を自分なりに掴み取っていかなくてはなりません。

幅が広がるだけでは薄っぺらくなるだけですが、奥行きが1cmでも増えればその分「体積」が増えていきます。

ペットボトルや器のようなものだったら「容積」が増えていくわけです。幅だけが広がり続ける器は面積は広がり、確かに載せられるものは多いかもしれませんが、少し揺らすとすぐに中のものがこぼれ落ちてしまいます。

器の奥行き(高さの部分)が高くなれば、お味噌汁とか煮物とか水物を入れてもこぼれません。

何度も言いますが「知っている」「知識をもっている」ということに価値を見出して、面積を肥大させる方向性は時として何の役にも立たないことがあります。

知識や情報を「もつこと」に躍起になったり、「もっていないこと」を否定したりすることは表面的には優越感に浸れるでしょうが、それ自体は何の問題解決にもなりません。

英単語をたくさん知っていて、スペルを間違いなく書くことができても、実際英会話で使う単語はそこまで多くなくてよかったりするように「大量にもつこと自体」が目的になると微妙だよね、という話でした。

知識もそうなんですけど、Mass(大量に・多数・集団的)であることにあんまり意味がなくなっていくんだろうなーと。

もしかしたら、この2ヶ月で10キロ痩せたことでこういう考えに至っているのかもしれません。

 

にしけい

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