【三話目】オウム真理教(アレフ)という宗教団体に触れて感じたこと。

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(アレフの)ヨガ教室に通い続けて3ヶ月ぐらい経っていたと思います。

オウムの洗脳二大巨頭クンダリーニ

僕がここまで通えたのは純粋に好奇心からだったのかもしれないけれども、それ以上に体験してみたいものがありました。それはクンダリーニ覚醒という境地です。

クンダリーニとは尾骶骨あたりにあるチャクラの源泉からエネルギーが背骨を伝って頭頂部まで上昇させるヨガの行法です。

射精の20倍気持ちいいとか、死ぬ直前はクンダリーニのような状態になるとか、睡眠時間が3時間で済むようになる…とか。

仏教ではクンダリーニを覚醒させると「悟りを開く」ことと同義らしく、このヨガ教室(アレフ)ではクンダリーニ覚醒を目的に来る人が多いのだとか。

僕自身、クンダリーニのクの字も知らず、最初聞いたときは何か性交渉時のテクニック的な何かなのかと思ったぐらいでした。

で、このクンダリーニというものを知った以上は是非体験してみたい、覚醒させていみたいと思い、せっせとヨガ教室に通っていたのです。

 

体験したでしょ?私たちの言ってること全部正しいでしょ?

後々わかってきたことですが、このクンダリーニという境地は、ヨガの行法の中にきちんと存在します。

そして、これを覚醒させるために何十年も修行する人もいるらしく、これをヨガの修行の最終目的地点に設定している行者もいるのだとか。

そして、これは体験すると何とも言えない恍惚感に浸ることができ、全知全能感を得ることができるらしいです。

オウムの洗脳のやり方の根幹をなすのが、このクンダリーニ覚醒です。「体験させること」で、疑いようのないものにしてしまうのです。

オウムの幹部や信者には高学歴・高い知性をもった人たちが多数いたことは有名です。彼らは必ず証拠や根拠を欲します。論より証拠。この証拠の部分を「強烈な体験」として突きつけるのです。

「体験したでしょ?ほら、疑う余地ある?」と言わんばかりに

強烈なクンダリーニ覚醒の体験は教団の教えを信じ込ませるには十分すぎるぐらい強烈な証拠だったのではないかと思います。

この疑う余地のない証拠をつきつけられることで、それ以外の言説も信じ込ませやすくなります。

1回体験させちゃうと「それ以外のこと」も合わせて信用してしまう。ほとんどの宗教の洗脳の仕組みがこれだと思うし、宗教に限ったことではないのです。

占いの「当てること」も同じ目的だろうし、パチスロで1回勝たせてのめり込ませて巻き上げるのも同じ。

飛騨牛の串焼きも、1番上の肉だけ飛騨牛にしておいて下の3つは安物の肉にしてる店もあるとか、ないとか。

とにかく1回強烈に体験させちゃうとそれ以外の言動や行動と切り離して考えられなくなってしまうのです。

というかそのまま信じた方が楽なんですよね。ある意味すごく合理的。

宗教や占い、お金とか、科学とか、会社とか、あなたが履いているパンツとかもある意味合理性のために生まれたわけだから洗脳と言えます。

「パンツをはくとズボンやスカートに汚いものが付着しなくて便利!見た目も素敵!」ということを一度体験したことがある人が

「パンツ=必ず毎日はいた方がいい」という疑いようもない洗脳のもとパンツをはき、我が子にも当たり前のようにパンツをはかせる。

その結果、パンツというものが今も売れ続けているし、おそらくあなたもはいているはずです。

一度でも「パンツって本当に必要なのだろうか?」と疑ったことがある人は(特殊な趣味がある人以外)ほとんどいないはずなのです。

宗教とパンツは「洗脳する範囲と精度」が異なるだけです。

宗教が叩かれるのは「洗脳する範囲」がその人間の行動原理や生活スタイルなど幅が広い上に、科学的証明がされていないもしくは確率が低い理論をベースとしているからです。

パンツに比べ宗教は洗脳の精度が荒いのです。それゆえ疑う人が多い。ただそれだけのことなのです。

高学歴・高い知性をもった人たちは基本的に合理的です。「テストの点数さえ良ければいい」という教育の洗脳にかかった人たちです。そんな人たちだからこそ「強烈な体験」をして信じ込んだあとに「楽で効率的な方」を自然と選ぶのだと思います。

いかんせん、このクンダリーニ覚醒という体験は非常に恍惚感があります。

僕もこのヨガ教室に通っている間に、一度だけ覚醒したことがあります。それについては後ほど詳しく書いていきます。

 

平気で人を殺すことができるカルマの歪んだ解釈

クンダリーニ覚醒に加えもうひとつ、このヨガ教室では「業(カルマ)」という言葉が盛んに飛び出していました。

カルマの仕組みはとてもシンプルで「悪いことをしたら悪い結果が返ってきて、良いことをしたら良いことが起こる」というものです。

「ひとつ悪いこと」が起こったら「悪いカルマをひとつ消え」るため、悪いことがあっても喜びなさいという超ポジティブシンキングを推し進めているのかと思いきや

これが曲解されて「人に殺されても喜びなさい」とか「人を殺すことは殺された人の悪いカルマを取り除くことにつながる」という思想に変化し、殺人を正当化できるわけです。

ヨガ教室(アレフ)では「過去世から引き継いだ悪いカルマを今世で消し、良いカルマを積んで来世は神がいるような天界へ転生する」ことを目的としており、実際「利他の精神」をもっていた人たちもけっこういました。

彼らの支部に行って複数の信者の方とお話したときに、基本的には「利他の精神」をもっている優しい雰囲気の人たちが多かったです。

しかし、この「利他の精神をもつ優しい雰囲気」というのは何もこの宗教だけではなくて、他の宗教の信者たちにも多く見られました。謎の穏やかさがあって、一種思考が停止したような、死んだような目をしているのです。

何か悲しみや憎しみといった自分の感情に強引にフタをして押し殺して、偽りの穏やかさを装うのです。

関連記事:【廊景谷シイチ/人間観察】「偽りの穏やかさ」と「哀しそうな影」について

 

善悪って主観じゃん

このヨガ教室に通う前から、他の宗教でも盛んに言われる「良いこと」「悪いこと」について考えていました。

とある宗教では利己的なことや悪いことをした人を「利が吹く」と言って非難したりしますが「利が吹くか吹かないかって明確な基準があるの?」と信者の方に質問したこともあります。

カトリックの方にも「良いこととは何ですか?」と質問をしたときは「愛があるかどうか」って答えがかえってきました。うーん。何とも曖昧な答えです。愛があるかどうかを判断するその基準は誰が決めているのでしょうか。

善悪があるってことは「基準」があるのです。その基準って何なのか?誰が決めているのか?おそらく自分です。

「良いカルマを積む」「悪いカルマを捨てる」と言われても、結局主観なのかと思うと、神とか教祖といった基準となる存在って必要なのかと考えました。神と自分、ダブルスタンダードになっちゃうじゃん。

そんなわけで少しずついろいろ疑いながらも

「睡眠時間3時間でいい」と「射精の20倍気持ちいい」という謳い文句に釣られた僕は

好奇心のままにヨガ教室に通い続け瞑想と呼吸法の練習をしていったのです…。

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書いている

西田 圭一郎 (にしけい)

1987年富山市生まれ。化学系工学修士。商社の開発営業職を辞めて、占いとWeb開発などを生業にしています。趣味は読書と旅とポケモン。文章を書くことが好きです。三児の父。詳しくはこちらから。

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