【廊景谷シイチ/人間観察】「偽りの穏やかさ」と「哀しそうな影」について

ご機嫌よう、廊景谷シイチだ。

人間をタイプ分けして差別することはあまり好きではないが、いろんな人に会って話をしている中でたまに「偽りの穏やかさ」を醸す人と「哀しそうな影」を背負う人がいる。

非常に感覚的なので言語化して明瞭に伝わるかどうか疑問なのだが、細かく説明を試みる。

 

偽りの穏やかさ

まず「偽りの穏やかさ」を感じる人の傾向として。

・「利他」を最優先し、相手に尽くすことがもっとも重要だという旨の言説がある。

・会話中に目と目が合っているように感じるが、視線が細かく振動しているようにブレており目が合わない感覚を覚える。

・自分の行動を自分で決めることを放棄しているように見える

・長男長女に多い

・自己犠牲を優先させる

・度々「貧困だった」「家庭事情が複雑だった」という旨を露呈する

・しかし、実際それらと相関がないように見える。

 

「穏やかに相手を不快にさせないように過ごしていればすべてうまくいく」ことをモットーとしており、主体性がない。

「偽りの」という言葉を選択した理由としては、このタイプの人たちは実はきちんと「自我」が存在して自分の意思をもっているにもかかわらず、人間関係や仕事をスムーズに遂行させるために徹底的に自我を殺し、利他を遂行し、穏やかな様相を装う傾向があるからである。

一見すると「余裕があるように」見えたりもするが、その余裕の根源は「信仰」だったりする。

浄土真宗の他力本願の「他力」の対象が阿弥陀如来であるように、自分よりも絶対的な存在に判断を委ねることで行動や言動の効率化を図る狙いがあると見られる。一神教的な合理性がある。

仏教にも「四諦」という考え方があるが、偽りの穏やかさを醸し出す人々はどこか主体的行動を諦めているような姿勢がある。

「どうせ私が決めてもうまくいかない」といった捨て鉢な考えが根源にあるようにも見える。

偽りの穏やかさをもつ人々は利他を実践するため、組織や他人からの指示に対して忠実に応じようとする。そういった意味では非常に「仕事ができる」ように見える。しかし、終始受け身なため応用がきかなかったり、クリエティブな発想力に欠けたりする傾向がある。

主体的な意思決定を放棄しているため、翻弄され最終的に精神的なキャパシティーを超え「装うこと」ができなくなると穏やかさが破綻し、暴走したり、辞職したりする。

「いい人」であろうとするため、環境によってストレスの蓄積量は凄まじく、過食や異常行動を度々繰り返す人も。

偽りの穏やかさを醸す人々が実践する利他は「自分の人生がうまくスムーズに進むための利他」なので、本来の仏教用語の利他とは根本的な意味が異る。

おかしな話なのだが「自分の為に自己犠牲を優先させている」わけである。

そういった意味で、この偽りの穏やかさを醸す人は非常に自我が強く、自己保身を最優先しているわけである。

「実は自我が強い」ということを認めることができれば良いのだが、偽りの穏やかさを装う人々は「自我を殺す」ことをモットーに行動しているため、それを実践できていない自分を認めたくないがゆえに「自我が強い自分」に拒否反応を示す。

必死に殺そうとしなければならないぐらい強烈な自我をもっていることに早く気づき、実は自己保身のための「自分のための利他」だということを認識して、砂つぶひとつ分でもいいので楽に生きていければと思う。

 

哀しそうな影

哀しそうな影を抱える人の傾向

・常に不足感を抱えている。渇望感がある。欲しがる。

・社会的に成功している自分を発信したがる。

・侘び寂びの「侘び」を知らない。

・笑顔が引きつり、会話中に目が合わない。

・自己評価が低く、自分を追い込む。

・非常に感覚的だが、社会的に成功していても幸せそうに見えない。

 

先述した「偽りの穏やかさ」を装う人と似ている点は「自己評価が他者にある」ところである。

占い好きのにしけい君曰く、家相の概念で言うところの「家屋の中に太極が存在しない不安定な家」に近いものがあるらしいが

いかんせん、不安定な精神状態を安定化させるべく「成功」というものに躍起になり、憧れる傾向がある。

言説や行動が立派でも、会って話をするとどこか不安が残る印象を受ける。底のないコップのような印象。

行動力に優れ、移動も多く、仕事もストイックにこなすが、何かを「埋めるため」の行動であり「マイペース」を知らない。

他者からどう見られているか、他者からの評価が最重要であり、自分の中に自分を評価する基準をもっていない。「自分がやりたいこと」も、一見すると主体的に見えるが、純粋な自己願望ではなく「承認欲求」が混ざった「やりたいこと」なので長続きしない傾向がある。

「他者から認められたくてしょうがなくて生きている」ということに気づいている人もいれば、それを認めたくないのかあくまで「自己の意思で自由に生きている」という言説をする人もいる。

「向上心が高い」と「自己評価が低い」を混同しているようで、それに気づかないといつまで経っても幸福感を得られず、自己を責め続けることになる。

「哀しそうな影」がある人はとにかく他者に認められたいので自分の行動を他者に向けてよく発信する。最近ではSNSがその一助を担うわけだが、彼らが求めているのは「いいね」の数であり、称賛されることである。

人間の行動原理として「承認欲求」は自然なものだが、それ「だけ」になってしまっている傾向がある。

 

自分の意思や行動を他者に委ねているという点では「偽りの穏やかさ」をもつ人と同じであり

奔走と暴走を繰り返し疲弊し、精神を病んでしまう傾向がある。

そしてそれを繰り返す傾向があり、一度「病むこと」を経験した人特有の「哀しそうな影」が時折垣間見えるとなんとも言えない気持ちになるが

私は何とも言えないのである。

廊景谷シイチ

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