占いを生業にしていると「開運」という言葉をよく耳にします。占いを生業にしていなくても耳にすると思いますが、なぜか占いを生業にする前のほうがこの「開運」というものに興味関心があった気がします。開運とは「運を開く」ということで、平たくいうと「運気を上げる」とか「幸運が訪れる」とかそういったニュアンスで使われている場合が多いです。そういった開運を促す行為を「開運法」と言ったりするわけですが、この仕事をしているとやはり開運法にこだわる人に出くわすことが多いです。そのような人たちを見ている中で共通項が見えてきたので、今日はそれをちょっと文章にしたためたいと思います。
「開運」に執着するほど運がなくなる
開運というのは「運気を上げたい」という能動的な態度に見えて、実は受動的で他力本願な態度のように見えます。まず自分は本当に「運がいい」と思っている人は「開運法」には執着しません。例えば、テストの点数が良い人は「勉強頑張ろう」とあまり思いません。大人になった今、小学校の算数の足し算のテストを受けたとします。おそらくケアレスミスなどがない限り、ほとんどの人が満点を取ると思います。満点の結果を見て「勉強頑張らなきゃ」と思う人は少ないはずです。「勉強頑張ろう」と考えるときは「満足のいく結果が得られていないときに」に起きます。ここで大事なことは「自己満足」です。例えば何かのテストを受けて60点だったとします。この60点でも「だめだった」と思う人もいれば「よくできた」と思う人もいるわけです。点数という数字は絶対的ですが、それによる評価は相対的です。どう感じるかは人それぞれなのです。
4歳になる息子とニンテンドースイッチでスマブラをよくやるのですが、彼は毎回終わったあと「やったー!ぼくは6位だ!」と自慢げに話します。プレイヤー数は6人なので、実質最下位なのですが、彼はそれでも「やった!」と喜びます。もしかすると順位というものよりも「数字を読み上げて、数字がわかる」ということが嬉しいのかもしれません。どうしてもゲームでは1位を取ったほうが良いと考えてしまいがちですが、彼を見ていると自分がいかに発想が固定化されていたかを思い知らされます。何度もいうように、結果や数字が同じでも「捉え方」が違うわけです。そして「テスト勉強しなくては」と考えるのは「自分がやった結果に満足していない」からであって、開運に執着する人も同様に「自分の現状に満足していない人」が非常に多いです。
これは言い換えると、自分の「足りない部分」「劣っている部分」に着目しやすいということです。「足りない」「満足がいっていない」という理由からそれを補うために「開運法」ということをやる。手首に数珠のようなブレスレットをつけたり、玄関に八角形の鏡を飾ったりするわけです。なので、まず開運法に執着する人の傾向として「自己満足度が低い」というものがあります。良く言えば「簡単に満足しない」ということなので、探求的で積極的な姿勢に見えるのですが、前提にある「自分には運がない」という考えはそうではありません。
自分以外の何かのせいにし続けた先には?
「自分には運がない」と考えるとき、あなたはどんなときですか?おそらく多くの人たちが「うまくいかないとき」だと思います。スムーズにいかない。思わぬ邪魔が入る。そんなときに「ツイてない」「運がない」と考えるはずです。例えば立て続けに交通事故に遭ったとき、「運が悪い」と考えて「厄年だから」とか「今の車になってから運が悪い」といったことを考えるかもしれません。しかし、果たして本当にそうでしょうか。もちろん予期せぬ不幸はあります。防ぎきれない不慮の事故はあります。しかし「全ての結果」が本当に全て「運が悪いこと」が原因でしょうか。自分に落ち度はなかったでしょうか。「運気が良ければ防ぐことができた」「運が良ければこんなことはならなかった」本当にそうなのでしょうか。
「運が悪かった」と言えば、それ以上考えなくて良いので楽なのです。何を考えなくて良いかというと「自分の悪いところ」です。「開運に執着する人」の多くが「自分は悪くない、運が悪いからだ」という思考に陥りがちです。仕事がうまくいかないのも、人間関係がうまくいかないのも、交通事故に遭うのも、すべて「運が悪いからだ」と。開運法に執着する人たちの共通項に「会社や社会や時代のせいにする」というものがあります。「自分の現状が悲惨なのは全て会社や社会が悪いからであって、自分にはその原因がない。むしろ自分は被害者だ」こういう思考が根底にあるのです。自分軸ではなく他者軸によって動いているわけです。開運法にこだわる人は「自分は他人からの影響を受けやすい人間で、傷つきやすいので自分のせいだと考えたくない人です」という性質が根底にあるわけです。自分の行動や言動には自分で責任を負いたくない。そしてその根底には「自己満足度の低さ」があります。自己満足度が低い→傷つきたくない→誰かのせいにしたい→漠然とした何かのせいにする。こういう思考回路が根底にあるわけです。
小利口な人ほど開運に走る
このような行為を否定するわけではありません。一種の防衛本能であり、漠然とした何かのせいにすることで気持ちを切り替えて前に進めるのであれば、「先祖の霊」「前世の自分」「会社の仕組み」「生まれた時代」なんでも言い訳の材料に使っても良いと思います。それで何とか納得してその瞬間、前に進めれば…です。しかし「漠然とした何か」のせいにし続け、それに依存し続けるといつまで経っても状況は好転しません。「自分は運が悪い。だから何をやってもうまくいかないんだ」と、開運グッズを増やしたり開運法をいくらやっても根本的な解決にはなりません。「誰かのせいにし続けて、自分は何も進歩しなくていい」と本気で考えているのであれば構いません。かける言葉はありません。しかし「本当はそんなことをやっても意味ないのにな」と思いながらも「開運」というものに依存している人はまだ「変わる余地」があります。
また、開運法に執着する人たちの傾向として「小利口な人」が多いです。「ちょっとうまくできる」「うまくやろうとする」という人ほど「自分はうまくできるはずなのに」と、うまくいかなかったときに「運」や「他者」のせいにします。他者のせいにすると「自分で勝負」しなくなるわけです。そしてプライドや知識が肥大していき、気づいたら「被害者癖」が板についてきます。自分が傷つかないように会話や行動に「予防線」を張るようになります。その前段階として「肩書き」や「誰かのお墨付き」のようなものに執着する時期があったりもするようです。
程度に違いはあれど、少なくとも「開運」というものにこだわる人の傾向として
1.自己満足度が低い
2.傷つきたくない、繊細
3.プライドが高い
4.小利口にやろうとする
5.被害者意識が強い
6.他者軸で自分を装飾する
7.社会や時代への批判を始める
8.知識やプライドが肥大する
というものがあります。
赤ちゃんのころ、どうでした?
で、
これだけで終わると、ただ「傷つけて終わり」になってしまうので…
おそらく「開運にこだわる人」の一番の原因は「1.自己満足度が低い」だと思うんですね。
なので、まずそれぞれの言葉を言い換えてみます。
1.自己満足度が低い
→探究心が強い、より良いものを求める
2.傷つきたくない、繊細
→痛みがわかる、人に優しくできる
3.プライドが高い
→悔しがれる、競争心が強い
4.小利口にやろうとする
→卒なくこなせる、オールラウンダー
5.被害者意識が強い
→(これはちょっとポジティブな言い換えが思いつかないです。すいません)
6.他者軸で自分を装飾する
→演じることができる、TPOに合わせられる
7.社会や時代への批判を始める
→他の人が見落としたところにも気が付ける
8.知識やプライドが肥大する
→勉強熱心、博識
まず、自分を認める。とりあえずフラットに肯定する。
そして、何よりもそんな自分でもなんやかんやで「今まで生きてこれた」わけですよ。運のせいにもしたし、LINEで上司の悪口も言ったし、居酒屋で会社の仕組みの愚痴も言ったし、Twitterで気に食わない政治家の批判もした。
そんなこんなしながらも、なんとか生きてきたわけです。
生まれたてのころの自分、覚えてますか?
赤ちゃんの頃の自分と比較してみてください。できるようになったこと、めっちゃ増えてるんですよ?
あのころできなくて、今できてることいっぱいあるはずですよ。
「できないこと」「だめなところ」に目を向けるから「運がない」→「開運をしなきゃ」になるんです。
だから「できていること」に目を向けて「自分って意外と頑張ってるじゃん」となれば、誰のせいにしなくてもいいのです。
多分それが一番の開運につながるんじゃないかなと思います。
ということで、この記事を最後まで読んでくださったあなたには特別に
運気が最高にアップする八角形の黄色の壺をご紹介したいと思いm
にしけい