異性の身体的あるいは装飾的なパーツに対して特異的に性的魅力を感じる傾向・嗜好・趣味、いわゆるフェチ。
あなたもおもちではないでしょうか。
僕は自分が脚フェチだと気づいたのは25歳ごろを過ぎてからでした。
秋葉原まで来てよかった…!
そして神さま、僕に視力を与えてくれてありがとうございます。#よむ展 pic.twitter.com/6UmW7oS9Rr— にしけい (にしけいポン) (@nishikei_) 2017年12月4日
遅咲き?のフェチの開花に、最初は戸惑いました。
きっかけと言えるほどのきっかけもなく、自然と女性の脚について強い興味関心をもつようになっていたのです。
僕にはそのような趣味はないと感じていたのに本当に不思議でした。
なぜ脚(足)に惹かれるのか?
なぜ急に脚(足)に惹かれるようになったのか。
そもそも何に性的魅力を感じているのか自分なりに考察してみました。
ハイハイしていたころ母親の脚を追っていたマザコン説
ハイハイをしていたころ母親の脚(足)を追っていたので その名残から脚=安心を連想している説。 年上の女性の魅力を感じるようになったのも25歳ごろなので もしかしたら母性や安心をもとめているのかもしれません。 |
妊娠していない女性を探す繁殖欲強め説
女性は妊娠すると 胎児を身体で支えるために足のサイズが大きくなったり 脚が太くなると言われております。 そのため「脚が細い(美脚)=妊娠していない」という等式を脳内で成立させ そのような交配相手の判断基準として脚が惹かれる要素になっているという説です。 |
性器へと続く導線、好奇心旺盛説
パンチラ研究のバイブル、井上章一「パンツが見える。―羞恥心の現代史 (朝日選書)」の一文を引用します。
皮肉なことに「隠すため」のルールやマナーができて目標達成が困難になればなるほど好奇心や探究心をくすぐられる。 これはまるで力(N ニュートン)と面積と圧力(Pa パスカル)の関係のごとく、面積が小さくなればなるほど圧力が増大するという数式と同様なわけです。 Pa = N/m2 露呈する面積が小さくなっていくほどにその力(この場合は求心力)が増していく。 少年たちが森や草むらで「より珍しい」昆虫や生き物を捕まえようと駆け回ったり 「よりレアな」モンスターを手に入れようとテレビゲームに夢中になったりするのもこの数式で説明できるのではないでしょうか。 脚(足)もゴール(性器)へ導線であり、好奇心や探究心を駆り立てるのではないでしょうか説。 |
線が好き、アーティスティックを感じている説
線には情報があり、単純に脚の線形の美しさに恍惚としているという説です。 これは日本刀のラインに美しさを感じるのと同じである種の芸術性を脚の中に見出しているのです。 手相のお仕事を初めて「線」というものに強く興味関心をもつようになっていた時期とも重なるため、脚の「線」に何か感じるようになったのかもしれません。 |
“フェチシズム”は象徴装置
4つの仮説を立てましたが、どれも共通項として「連想ゲームをしているという」点があげられます。
脚は「繁殖」や「安心」といった最終目的を想起させるための「象徴装置」なのです。
そしてこの象徴装置こそが「フェチ」なのではないでしょう。
上野千鶴子「スカートの下の劇場」に興味深い言及があるので引用しておきます。
男の欲望の回路の中には、必ずある種のフェティシズムがあるような気がします。それは、ある意味でセックス文化の中で、男のほうが文化度が高いということでもあると言えます。
(中略)
男性のほうが象徴装置により多く訴える分だけ、文化的な倒錯を生きているといえます。象徴性はいわば男性性の核をなしています。セクシャリティは文化的な妄想の産物ですから。
そして、性器にもっとも近いモノとして、おそらく下着が男のフェティッシュな傾向にいちばん馴染みやすいのではないかと思います。
女性の文化度が高まり「性器の隠蔽」に比例するように
男性の「性器への憧れ」が強まり妄想が複雑かつ精密化し性欲はフェティズムの迷宮階段へと下りていきます。
「性器」だけではなく、人間が求めるものを連想できる象徴装置がフェチの根源なのです。
フェチは虚構が創り出した副産物
先述したフェチの根拠となる「象徴装置」はなぜ生まれるのか。
その答えは「虚構」の発生が背景にあるのではないでしょうか。
象徴装置、つまり実物ではない「虚構」は人類が文化を形成する上で必要不可欠なものです。
今日でさえ、人間の組織の規模には、150人という魔法の数字がおおよその限度として当てはまる。この限界値以下であれば、コミュニティや企業、社会的ネットワーク、軍の部隊は互いに親密に知り合い、噂話をするという関係に基づいて、組織を維持できる。
だが、いったん150人という限界値を超えると、もう物事はそのように進まなくなる。
では、ホモ・サピエンスはどうやってこの重大な限界を乗り越え、何万もの住民から成る都市や、何億もの民を支配する帝国を最終的に築いたのだろう?
その秘密はおそらく、虚構の登場にある。
人類を支配するためには「神」「ルール」といった虚構が必要でした。お金もそのひとつです。
このような虚構による縛りが、先述したような象徴装置を生み出すきっかけになっています。
男性は女性に比べ腕力はあります。しかし、精神力・忍耐力は女性の方が圧倒的に強いです。
この精神力を補完するためには「虚構」が必要なのです。
男性の方が論理的で合理的と言われますが、本来は女性の方が圧倒的に合理的です。
しかし、男性は数学やルールや経済といった「虚構」にすがることで精神を維持すると同時に、合理性を獲得します。
実際的ではないものに憧れ、追い求めることで弱い精神力を補っている、そんな気がしてならないのです。
このことが男性の象徴装置(フェチズム)形成に強く寄与しているのではないでしょうか。
フェチは「永遠の未完成」でいられる
文明社会が「本物の性器」や「本物のセックス」を遠ざける反面
完全に動物性を捨て切れない我々人類の性欲は文明社会の軋轢に引き伸ばされ湾曲した性趣向(フェチ)を形成していきます。
その結果、性器そのものが生々しくグロテスクに見えてしまい
「性器を連想させる存在(フェチ)」が最も興奮する特異点となってしまう人たちも中にはいます。
種の存続のために性交渉が必要な我々人類にとって性器は、最終到達目標であり即ち終焉(フィナーレ)です。
フェチはフィナーレを連想させ、強い結びつきはあるものの、フィナーレそのものではありません。
それは制限時間の無いサッカーであり、卒業のない高校生活です。
終焉に辿り着かずに、いつまでも楽しくボールを追いかけたり、ずっと青春時代を過ごしたりする。
そんな甘酸っぱいワガママが「フェチ」には詰まっています。
宮沢賢治が残した「永遠の未完成、これ完成なり」という言葉。
この言葉はまさにフェチのためにあるのではないでしょうか。
にしけい