誰かから聞いた話なんですけど、筋肉や結合組織の硬化すると、その周辺の神経が圧迫されやすくなって、痛みのシグナルを出しやすくなるんですって。炎症とかも組織が硬化することで、起きるらしいです。痛みの原因は他の原因も考えられるそうなので、完全にそうとは言い切れませんが、痛みと固さには何かつながりがあるようです。(赤ちゃんに腰痛が起きないのは「やわらかい」からだそうです)
硬化や痛みはひとつの防衛本能なので、生きる上で必要な機能なのですが、痛みと固さが結びつくというのは、精神的な面でも言えるかもしれません。「心の痛み」です。
「寂しさ」の正体は何なのだろう?
https://nishikei.jp/nishikei-pon-mind/34239/
過去に上記のような記事を書いてすが、寂しさは「足りない部分」に意識が集中していると起きるという風に考察しました。この「足りない」と判定するためにはジャッジするための軸が必要になります。
例えば、「財布の中に5000円ぐらい入っていたら足りている」と感じる人は、財布の中身が400円だったら「足りていない」と感じるでしょうし、10万円入っていたら「たくさん入っている」とジャッジするわけです。つまり、この場合の「判断軸」というのは、何かしらの「固定されたイメージ(自分だったらこれぐらい財布にお金入っているわ)」があって、そのイメージを基準にジャッジしているわけです。
寂しさを感じやすい状態というのは…
・うまくいっていた
・やさしい言葉をもらった
・チヤホヤされた
・注目を浴びていた
・人々は自分に従った
・評価された
など、何かしらの「他者によって強い快楽がもたらされた」という経験があり、そのときのセルフイメージが強く固定されると、寂しさも強くなると考えています。
「他者によって強い快楽がもたらされた過去のイメージ」という基準と現実を比較したときに、「そうではない」という状況に耐えられなくなると、「寂しさ」が強くなるようです。ポイントとなるのは「他者によって」という部分です。
例えば、異性と恋愛関係になり、チヤホヤする・されるという状態を経験し、それをしているセルフイメージが強く固定され、それが基準になると、異性と恋愛関係になっていない、チヤホヤされることもないという状態に寂しさを感じるというわけです。
特定のセルフイメージが固定されるときに起きがちなことが、「部分が全部になる」という現象です。自分には複数の要素(良いところ、評価すべきところ、足りているところ)があるにもかかわらず、「恋愛的にチヤホヤされている状態」のセルフイメージが強く固定されると、それが自分の生活や人生にとって全てであると誤解してしまうわけです。偏りが大きくなっている状態です。
僕は、「愛」と「固」は対義語なのではないかと考えていまして、「固」は範囲の限定が起きて部分性が強くなり、「愛」は範囲の限定が起きず全体性が強くなると考えています。
完全に全体を見るということは不可能かもしれませんが、特定の人物の特定の部分のみを見る・見せ合うという状態は「固」になり、特定の範囲に絞らず複数の要素を見る・見せ合うという状態が「愛」なのではないかと考えています。一言で言うと、相手のしょうがないところも受け入れるのが愛で、自分にとって都合の悪いところを見たくない状態が「固」であり、「愛」ではなく「恋」なのではないかなと考えています。
「寂しい」という状態は特定の要素のみに範囲を限定して、自己や他者のイメージを固定している状態なので、自分がそういう状態だと同じような人が寄って来やすくなります。特定の部分のみを見せたい、見たい人同士がマッチングするわけですね。それで、そういうときって大体が弱っているときや、省エネになっている、消極的になっているときなので、一時的には依存関係になったり、それなりの関係にはなるのですが、長期的には続かない場合が多いんですね。ビジネスライクというかドライな関係です。愛っぽいものはあるんですけど、実際はないんですね。
それで、誰とでも愛のある関係を構築するのは難しいのですが、手の届く範囲で自分の身近な人の「しょうがない部分」も受け入れつつ、ダメなものはダメと言い合える、素直な関係を構築することができれば、1人でも十分満たされるのではないかなと考えています。
痛みも寂しさも「固」から生まれるのであれば、なるべく「柔」したほうがいいわけですね。それで、どうしても柔らかくする余裕がないのであれば、なるべくちゃんとしたものを食べてたくさん寝た方がいいと思います。まずは、そこからかもしれません。
ハード(困難)な状況は文字通り、固さに由来しているのかもしれません。
にしけい