生・存・死すら全体に影響を与えていてどこまでいっても独り(特別)にはなれない

家を建てたり、店舗や事務所を建てたり、目に見えて誰かの成功に寄与できたなと思うとき。占いのお仕事をしていてよかったなと実感する。何か自分が社会と繋がっているような実感がする。何かに貢献できた気がする。

というようなフェーズはとっくに通り過ぎて。

それはあくまで「部分しか見ていないこと」だったと気づく。

「仕事の手柄」というものは特定の部分に限定しないと発生しない考え方だということ。

「自分が何かをした結果、何かが起きる」

成功。手柄。成功への寄与。貢献。何度も言うように、これらは「部分」しか見ていないし、部分でしか測れない。

何かに、誰かに影響を与えているのは特別な人や特別な仕事だけではない。もっと言うと、仕事ですらなく誕生・存在、死すらも全体に何かしら影響を与えている。

「自分が生きていても価値はない」「自分が死んでも何もない」ということはなく、死ぬことすら何かしらどこかで何かに影響を与える。その対象は人間ではないかもしれない。生も死も平等に価値があるし、平等に価値がない。

互いに作用し合って、影響を与えて、与えられて、存在している。存在しているだけで「無数の存在」に影響を与えている。それは可視化できないし、生きている間は認識できないかもしれない。しかし、確実に生も死も連鎖するように全体に影響を与えている。

「自分には特別な価値がある」と認識している存在も、「自分には全く価値がない」と考える存在にも、平等に無差別に全体に影響を与えて、与えられている。

職業に貴賎はないように、存在にも、行動にも貴賎はない。

著名な歴史的偉人も、生まれて間も無く死んでいった命も同じように全体に何かしら寄与している。それが目に見えるか見えないか。特定の軸に沿っているか沿っていないかの違いだけ。

たまに山や海といった壮大な景色を眺めて「自分は地球の一部だったと気づきました」という人がいる。そんな場所にいかなくても、個は全体に溶け込んでいる。日常の中でも全体の一部だし、全体とつながっている。境界線は存在しないと言える。

誰も見ていない道端で蹴飛ばした石も、その行為も、今あなたが無意識に吐いている息も、徳川家康が行った治世の一部と変わらず、全体に影響を与えている。

そう考えると「孤独」や「孤立」というのはどこまでいっても存在しない。トイレに一人こもっても、大好きだった人があなたの部屋を去っても、死んだあとすらも一人にはなれない。どこまでいっても全体に溶け込んでいて切り取ることはできない。寂しさも虚無感も絶望も部分から生まれる。

「自分は何の役にも立たないクズだ」とか「あいつは生きる価値も存在する価値もないヤツだ」といった感情もすべて「部分」を切り取り、全体を忘れているときに起きる感情で。でも、そういった感情すら全体に影響を与えていると考えると、すごく賑やかで騒がしいなとさえ感じる。水のように湿っぽくて、どこまでいってもつながってきて。意味のないものだと、無駄なことだと思いたいことにすら意味はあるし、意味があるかどうか考えること自体に意味がない。

「特別」を目指すことも、主張することも、思い込もうとすることも、まったくもってナンセンスというか。意味がないというか。海の真ん中にぷかぷか浮かびながら「海に行きたい!」と叫ぶようなシュールさがあるというわけです。

にしけい

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書いている

西田 圭一郎 (にしけい)

1987年富山市生まれ。化学系工学修士。商社の開発営業職を辞めて、占いとWeb開発などを生業にしています。趣味は読書と旅とポケモン。文章を書くことが好きです。三児の父。詳しくはこちらから。

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