子供は親よりも新しいです。「新しいもの=未来のもの」と定義して考えるとしたら、子供は新しくて、未来の情報に順応し、親よりも未来の世界を知ることが出来る可能性が高いです。あなたも誰かの子供です。あなたはあなたの親に比べると、より新しいはずですし、親世代が生きていた時代よりも「未来の情報」に触れているはずです。
東洋占術の六親(りくしん)には「子孫」というものがあります。他には「父母」「兄弟」「官鬼」「妻財」といったものがありますが、これらは主格から見た「立場の違い」を表します。
子孫という概念を抽象化すると、「自分が生み出したもの」を指します。実際の子供を表す場合もありますし、自分が生み出すわけですから何か「作品」とか「なんとなく書いたメモ」といったものも、あなたが生み出したもの「子孫」に該当するわけです。
あなたが生み出すものは、何かに影響を受けて生み出されている場合が多いはずです。人・もの・場・状況といったものに影響を受けて生み出されます。
例えば、「自分の名前を書いてください」と言われたときに、厳かな雰囲気の高級ホテルだった場合どうでしょう。いつもより少し丁寧に自分の名前を書くかもしれません。
尿意を催して早くトイレに行きたいという状況で「名前を書いてください」と言われたら、あなたはいつもより速筆で、雑に名前を書いてしまうかもしれません。
これらは「場」や「状況」によってあなたが生み出すものが変化する極々わずかな一例であり、日常的に行われているはずです。完全に独立した一人の人間では何かを生み出すことは出来ません。「名前を書く」という操作ひとつとっても、あなたは誰かにそれを要求されて書いているはずですし、名前を書こうと思う何かがあるはずです。
「占う」という行為も全く同じです。ご相談者・質問者の方が存在して、初めて占いの場は成立します。「占いの結果を出す」という行為は共同作業だなといつも思います。一緒に何かを生み出している感覚になります。特に、易の卦や六壬神課の式盤は図やシンボルといった可視化できる情報を作成する操作が含まれます。ご相談者・質問者の方と一緒に絵を描き、何かを生み出す作業なのです。
そうなってくると、「占った結果」というものも冒頭にご紹介したような「子孫」という概念に該当してきます。新しいもの・未来のものを、一緒に生み出しているわけです。そして、この記事で最も主張したいことは、この「自分(たち)が生み出したものを100%信じ切れるか」ということなのです。
例えば、自分で「Aをしたいと考えているがどうか?」というテーマで占ったとします。Aをしたい。うずうずしている。しかし、占いでは「Aをやるのはダメそう」と出たとします。「占い」は未来を知りたくて、自分で生み出したものです。特に卜術は「自分で生み出している感覚」が非常に強くなりますし、作業や工程が複雑になればなるほど「生み出している感」が強くなります。
占った結果に対する態度は、子供から何か指摘されたときの態度と同じような気がしています。自分の子供に「パパ、そんな古い服着てたらダサいよ!」と言われたとしたら、僕はどうするだろうか。その指摘を素直に受け入れられるか、それとも「うるさい!これがいいんだよ!」と突っぱねるのか。
「より未来を生きる存在」に「まずいでしょ」と言われるということは、未来ではそれはイケていないことになります。占った結果を受け入れるということは、自分が生み出したものを受け入れることでもあります。自分が生み出したものが気に食わない。納得がいかないから、信用しない。でも、それを生み出したのは自分です。占った結果に対する態度は、自分より新しい存在に対する態度と相関します。
子供は親の思い通りに動く存在ではありません。僕は一度父から「結婚するなら、看護師がいいだろう。何かあったときに助けてくれるし、介護もしてくれるから安心だ」と提案されたことがありました。すごく利己的な理由だなと思い、嫌なだなと思いました。人によって程度はあると思いますが、「生み出した存在」と「生み出された存在」の意見は一致しない場合が多いです。
「偶然出た何かから占う(卜術)」というものに、最初は抵抗感がありましたが、占いをすればするほど「たぶん、最終的にはこれだよな」という感覚があります。一緒に何かを作る。未知を生み出す。そして、それを信じて「未来の情報」からヒントを得る。子供の意見に熱心に耳を傾けるような作業なんですね。僕は「運の良さ」みたいなものは、「未知で得体の知れないものを信じられるか」も関係していると考えています。
ということで、やろうとしていたことを子供(占った結果)にボコボコにダメだと言われ、へこみつつ受け入れて自分の身の振り方を猛省中の男がお送りいたしました。
にしけい