メタ的な世界への旅路と帰還

 

メタ(meta-)

・「あとに」という意味の古代ギリシャ語の接頭辞。
・転じて「超越した」、「高次の」という意味の接頭辞で、ある学問や視点の外側にたって見る事を意味する。

 

漫画などで作者が作中にキャラクターとして登場して、作品の世界について語ったり、設定を壊したりすることがあります。僕の世代だと「世紀末リーダー伝たけし」を筆頭に、「銀魂」とか「ポプテピピック」あたりがこういった「メタいこと」をしている漫画です。

「メタ」は特定の世界をその外側から観測することです。そして、その世界観や根底となる前提をひっくり返すようなことがあります。なので、「夢中」とか「固執」の対義語かなーと思っています。

会社で働いていると「会社組織の中」にいますが、転職活動などで自分が勤めている会社と他社を比較する機会が出てくるとメタ的な視点が生まれてきます。虫かごの外にいるからこそ昆虫や生き物の生態を客観的に観察できるのです。

よく「上と下」という言葉で表現されるのですが、僕は「内と外」という表現のほうが適切な気がしています。会社組織の中で経営者はより外側から会社を鑑みる必要があり、現場で働いている人たちは組織の中から会社を見ている場合が多いです。視点が違っていて、文字通り「見ている世界」が違います。

上述したように、メタの対義語だと考えている「夢中」とか「固執」は「特定の部分のみ」を観測しているときに起きます。つまり、視野を限定しているわけです。なぜ、限定するかというとこのほうが効率的だからです。生命は進化の過程において特定の方向性に限定しながら順応することで「棲み分け(ニッチ)」を作り上げてきました。なので、決して「限定すること」は今に始まったことではなく、特別なことでも何でもありません。

「怒り」「悲しみ」「憎しみ」「絶望」といった「感情」は何か特定の部分に固執することで発生します。

問題やトラブルなどもその多くが特定部分への固執が原因である場合が多いです。

小学生の娘が全く宿題をやらず、「宿題やったの?」と聞いても無視してソファで漫画を読んでいます。これに対して「怒り」や「心配」といった感情が発生するのは、娘の中の「宿題をしない」という部分のみを見ているから起きてきます。

娘にもいろいろな要素があるのに、「宿題」や「成績」という部分のみで見ているわけですが、これらの部分は「日本の社会」という枠組みの中で生きていくには優劣を決める指標のひとつになっているからです。しかし、「日本の社会」という枠組みの外で暮らしているのであれば、こういった判断軸は不要かもしれません。

「メタ」はこういった判断軸を含め「部分への固執」を手放す際に役に立ちます。判断や決定の放棄とも言えます。判断や決定を放棄するなんて!と思う人もいるかもしれませんが、それは「判断や決定が善である」という軸がある世界の中で暮らしているから起きてきます。

ソファに座って漫画を読む娘は「宿題を締め切り通りに提出することが善である」という軸がないのかもしれませんが、ケーキやお菓子を買ってもらえないことには腹を立てるので「ケーキやお菓子が食べられるということは善である」という軸が存在する世界で暮らしているようです。

僕は手相占いという特定の固定された世界(観点・視点)から入って、そこからずっと「よりメタ的なこと」をやってきた気がします。某宗教団体に潜入した際も、勧誘する側の幹部側の人たちは「メタ的な視点」をもっていました。信者たちには特定の世界観を提供・強要するけれど、自分はその世界の外にいるんですね。

でも、一定数「信じたい人たち」「内側にいたい人たち」もいるわけですから、需要と供給としてはマッチしているんじゃないかなと思います。

ここまで書いたことは、下の図1つで全部説明できてしまいます。図はめちゃくちゃ楽です。笑

 

 

赤い方向性は特定の世界の内側に入っていきます。範囲が狭くなっていきますから限定性が強くなっていきます。

青い方向性は特定の世界の外側に出ていきます。範囲が広くなっていきますから限定性は弱くなっていきます。

 

赤い方向性は思い込みが強くなっていきます。範囲が狭くなっていきますのでストライクゾーンも狭くなり「これじゃないとダメだ」という観念が強くなります。排他的になったり、攻撃的になることもあります。過去の出来事にこだわったり、落ち込んだり、絶望したりもします。

範囲が狭くなりますので、良くも悪くも他者との衝突や接触頻度が増えます。接触したいということはつながりたい・くっつきたいということなのかもしれません。そう考えると特定の世界の中に居続けたい、固執したい人は「寂しい」のかもしれません。

善悪や優劣といったことに強く固執すればするほど、寂しくて満たされていないのかもしれません。上述したように内側に入っていけばいくほど、範囲が限定され、誰かと接触する可能性が高くなります。通勤時間帯の満員電車のように過密になっていきます。

 

 

反対に青い方向性は範囲が広くなっていきますので、他者と接触する頻度が低下します。何もないだだっ広いモンゴルの草原のように過疎になります。

青色の方向性が進むとメタ的な視点が生まれてきます。虫かごの中の生き物を観察するように、チェスや将棋のような鳥瞰的な視点とも言えます。

たまに、一時的に外に出た人が内側に戻ろうとしている様子が観測されます。こういうときに起きるのが「分かって欲しい」という感情です。分かって欲しさゆえに内側の世界のルールや言語に準拠して説明しようとするのですが、不自然な感じになるんですね。それで衝突や対立が起きたりもして、なんだかなぁという感じになります。うちの娘のように宿題など気にせず堂々とソファで漫画を読めるというのは意外とすごいことなのかもしれません。

まぁでも外側から見ている景色を内側の人たちに伝えようとするのは、大事なのかもしれないなぁとも思います。それを放棄しなかった先人たちのおかげで今があるわけですし、自分がこうしてブログや本を書いているのもそういうことなのだと思います。

旅先からホームに戻ってきて家族や友人に「外側の世界」がどうだったか伝えたいと思うとき。そこには感動や興奮があるのかもしれません。宇宙空間へ放り出されて戻ってくるかどうかは、結局のところ「感情」によるのかもしれません。どこまでいっても人間で、しょうがないなぁ。

にしけい

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書いている

西田 圭一郎 (にしけい)

1987年富山市生まれ。化学系工学修士。商社の開発営業職を辞めて、占いとWeb開発などを生業にしています。趣味は読書と旅とポケモン。文章を書くことが好きです。三児の父。詳しくはこちらから。

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