「人間はみんな何か才能や個性をもって生まれてきている」という前提がおかしくない?

就活の面接とかで自己アピールとかするじゃないですか。自分にはこんな価値があります。自分はこんな能力をもっています。あれすごく違和感を感じるんですね。

なんか「人は何かその人にしかない才能や能力をもっている」という前提があるように思い込んでいる人が多いと思うんですよね。

「自分は何かもっているはずだ」「自分は特別な存在で、価値ある人間であるはずだ」という前提があるんですね。僕の勝手な予想ですけど、これは核家族化が進んだり、他者と自分の分化が起きることで起きている現象だと思うんですよね。分化というか、分断というか。「私」と「あなた」という個人主義が背景にあると思うんですよね。

本当は全体の一部で、歯車のひとつにしか過ぎないんですけど、なぜか背景に「自分は特別な存在であるはずだ」とか「生まれてきた意味があるはずだ」みたいな信仰があるっぽいんですよね。だから「個性」とか「自分の本質って何ですか?」とか「本当の自分」とか「アイデンティティ」とかそういう言葉が出てくるんだろうなと思うんですけど、そもそも「人にはそれぞれ何か特別な使命がある」「人は何か才能や能力をもって生まれた」という前提がおかしいんですよね。

はっきり言いますけど、そんなものないんですよ。ないです。ないですよ。もう帰ってください。ないものはないんです。

「ある」と信じている人、「ある」と主張する人は自分は「特別な存在だ」と思いたいんですよ。願望なんですね。事実ではなく願望や妄想を述べているだけなんですね。

そんなことを言うとイチローは野球の才能があるとか、身長が高い方がバスケットボールをするには優位だとか、そういうことを言うわけですね。見た目が美しい方が芸能人になれるとか、医者夫婦の間に生まれた子は医者になりやすいとか、そういう「もっている」「もっていない」という話になるんですね。

何がおもしろいかというと、「人間はみんな何か才能をもって生まれてきている」理論を展開する人たちの多くが「他者」を見ているんですね。むしろ「他者」しか見ていないんです。そして、他者と自分を見比べて勝手に劣等感を抱いているんですね。自己肯定感の低さというのは「他者」を見て生まれるんですね。自分からは目を背けて自分を見つめようとしないんですね。それで「私もあんな風に才能があれば」「能力があれば」という風に考えるようになり、その人たちを特別視して切り離すことで「自分」を守ろうとするわけです。憧れて、切り離して、自分を守っているだけでは虚しい気持ちが助長されるので、最初に述べたような「自分にも何か特別な能力があるはずだ」と思い込もうとするわけです。

「イチローには野球の才能があるから、きっと自分にも何か才能や役割や使命があるはずだ」と。「自分の本質は現状の自分とは違うところにあって、それを生かすことができればきっと他者よりも優位になるはずだ」という論法になるわけです。

僕「本質」という言葉が大っ嫌いなんです。だって、それって妄想じゃないですか。妄想、つまり自分にとって都合よく想像された状態のことを指します。多くの人たちが話す「本質」って妄言に近いんですよ。だから「本質」という言葉を簡単に使う人は少し危険だなといつも思います。

確かに鳥は生まれつき飛行しやすい体で生まれていますし、魚は水中を遊泳しやすいフォルムで生まれています。しかしこれはあくまで「性質」とか「形質」です。百歩譲ってこれを「才能」と表現したとしても、彼らがその才能(性質)を生かすには「場」が必要になるわけです。魚は自分が「水中遊泳に特化した形をしているな」と考え素直にそれを生かそうとするから水中で暮らすわけです。魚が空を飛ぼうと木に飛び乗っても、文字通り「場違い」なんですね。

魚が妄想(都合のいい想像)をして「自分も空を飛べるだろう」と、水を飛び出したらどうなりますか?すぐに死にます。しかし魚は現実を見て、現実を受け入れているんです。妄想せず、自分の形質を受け入れているんです。そして、それが少しでも生かせる場を受け入れて、もしくは試行錯誤して生きているわけです。

「人間はみんな何か才能をもって生まれてきている」理論を展開する人たちの多くが、まず「自分」を見ないで「他者」を見ます。自分自身の気に食わないところがあるなら試行錯誤すればいいだけです。見た目が気に食わないなら整形すればいいです。歌が下手なら練習すればいいだけです。でも本当に試行錯誤しなければいけないことは、自分を見てそれにマッチする「場」を模索することです。「場違い」なら「場合う」まで、場を変えればいいのです。

おそらく何かで活躍しているように見える人たちは

1. 自分を変える試行錯誤をしている
2. 自分に合う場を試行錯誤している
3. 両方ともやっている

どれかだと思います。

そして「自分は何かもっているはずだ」「自分は特別な存在で、価値ある人間であるはずだ」という前提があると、この1〜3は発生しえないんです。自分には何もない、才能も能力も特別な使命もないと自覚しているからこそ「試行錯誤」をするわけです。

だから「自分には特別な能力がある」「生まれながらの使命がある」「自分の本質は今の環境では引き出せない」と考える人たちは、結局何も行動しようとしませんし、その状態で他者ばかりを眺めているので、日に日に劣等感が強くなっていくんですね。しかし、この文章を読んで気づかれたと思いますが「自己肯定感が低い人」ほど傲慢な前提を持っているということです。「自分ももっている才能や能力を生かして楽しい生活が送れるはずなのに」という前提があるから、うまくいっている人を見て自己否定していくわけです。

でも、先述したようにうまくいっている人は見えないところで自分を変える試行錯誤をしている可能性も高いです。誰にも見えないところで努力しているわけです。裏側(現実)を見たら「そりゃ(それだけ努力していたら)そういう結果になるよな」と納得できるはずです。しかし、見えない努力の想像がつかず、勝手に「あいつは才能があっていいよな」となっているわけです。「自己肯定感が低い」と自称する人がいたら、その人は「自分の都合のいい想像しかせず、自分の都合のいいところしか見ていませんし、自分を変える試行錯誤をする気がないです」と告げているようなものなのです。

夢を見たい気持ちは分かります。現実を見たくない気持ちは分かります。逃げ出したい気持ちもわかります。でも、それで目の前の事実やあなたの明日は変わってきません。いつまで経っても変わらないんです。「いつか当たりが出るはず」と妄想して、当たりが出ないパチンコにあなたの貴重な「時間」と「エネルギー」を毎日注ぎ込むってもったいないと思いませんか。

そしておもしろいことに「自分にとって都合のいいこと」を求めていると、それを引き寄せるように「都合のいいことを言ってくれる人」が寄ってきたり、都合のいいことを書いている本が集まってくるんですね。あなたはそれが欲しくてしょうがないので、お金を出したり、時間やエネルギーを注ぐでしょう。笑っちゃいますよね。

個性?性格?人格?本質?本当の自分?パーソナリティー?タイプ分類?神様の言葉?診断?

そんな虚構を知って本当に生きやすくなるんですか?自分にとって都合のいい情報だけ拾い集めるんですよね?

それって本当に「学び」なんですか?「気づき」なんですか?

そろそろ自分を見ませんか。現実の自分です。案外そんなに状況は悪くないかもしれませんよ。

自分で自分は見えないかもしれません。でも類は友を呼ぶですから、自分の身の回りに起きていることや集まってきている人たちが「自分」に近いはずです。それを見てどう思うか。どう感じるか。誰かの言葉なんか信じなくていいです。タイプ分類なんて無視してください。自分を見てください。そして足りないと思ったら試行錯誤してください。それだけで明日は少しずつ変わります。

「自分には才能も能力も特別な使命もない」と考えるようになると、自然と何かに感謝するようになります。何もできない無能な自分。そんな自分を生かしてもらえてる。鶏肉ありがとう、コーヒー豆ありがとう、米ありがとう。こういうふうになるんです。自己肯定感という幻想も捨て去ってください。大体の人が無能で無力です。うまくいっている人は自分もしくは場を試行錯誤しただけなんです。そういう前提でやってみてください。

にしけい

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書いている

西田 圭一郎

1987年富山市生まれ。工学修士。
商社の開発営業職を辞めて、占いや相術を生業にしています。本と旅とポケモンと文章を書くことが好きです。黒も好きです。どの国に行ってもスチューデント扱いされます。

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