「場違い」の場ごと壊せばまた違った場が出てくるはず

 

 

格好つけたいとかそういうの抜きで、これに尽きるんですよね。壊せば壊すほど純度が上がります。純度が上がると、純度が低いものをより簡単に切り崩すことができます。だから分解が早くなります。

あと、場が違ってくる。上とか下とか偉いとかバカとかじゃなくて、単純に場が違ってくる。場が違うと、海の中にいる人と砂漠にいる人ぐらい違うから会話が噛み合わなくなる。すれ違うというか、場が合わなくなる。タイミングが合わなくなる。

純度の低いことをやっちゃうと、やっぱり不純物が入りやすい。「ああ、やっちゃったな」と、終わってみて反省する。やっぱり初動の純度が大事だと思います。

最近ブログが書けなくなってます。今まで講座のテキストとブログに分散していたエネルギーを執筆にあててることもあって、本が次から次へとできてくる。分身の術を解いたような、分散していた自分が集合してもどってきているような感じです。

あとは「言葉」じゃなくなってきているというか。前々から文章は文字情報ではなく行間というか書いた人の息遣いを読むものだと考えていまして。書くときも「言葉は単なる記号なんだよな」「なんか効率悪いよな」という考えがどこかにあって。これもおそらく破壊のひとつなんだと思います。それでも僕の中では文章で伝えるという方法が一番楽なので、この方法を選んでいますが、もっといい方法があると思っています。一応「言葉」という形式を取っているけれど、そこじゃないんですね。言葉を捨てるとしたらテレパシーみたいな手段になると思います。純度を保持したままスピーディに伝える手段が必要です。

あとは近日発売の「手相占いの使い方」は僕の中で手相を完全に破壊し切ったものになるので、手相はもういいかなと思ってます。手相はわかりやすいし、皆さんの反応はいいんですけど、ずっと「もういいかな」と思っていたところに今回の本を書く機会が訪れて、それが確定的になりました。なんというかこれも場が違ってきているというか。自分が「手相をやっていたころの場」(居心地の良いゾーン)を破壊したので、そこに居場所がないんですね。また元々いた場に戻るって純度が下がるというか、打算が入っちゃうんですね。だから全然美しくないですし、不具合が起こるんですよね。なので、手相の講座もしないかなという感じです。なんかわざとらしくなっちゃうんですね。

高専を卒業して地元富山を離れてから15年ぐらい経つんですけど、昔は富山弁しか使えなかったのに、いろんな地域に行くようになって富山弁を忘れてしまったんですね。それで、たまに「富山弁でしゃべってみてよ」と振られるんですけど、これが全然うまくできないんです。忘れてしまったというか、その場を離れているので、ぎこちなく、わざとらしくなるんですね。それと同じような感覚で、もう一度手相をやってと言われると、もう全然違う場にいるので、すごくわざとらしくしなきゃいけなくなるんですね。「できなくはないけど、うーん、なんか違うよな」ってことあるじゃないですか。あれなんですよね。

「手相占いの使い方」の中にも書いていますけど、右上から中央上とか、右下から右中央とか、右側にい続けたい人たちに向けての占いも、もういいかなという感じがしてます。それは僕の仕事じゃないというか。それも場違い感が出てきているんですね。僕が上に行ったとか、調子に乗ってるとか、そういうのではなくて、人を騙しているような申し訳ない気持ちになるんですね。でも、申し訳ない気持ちも1度破壊して、もうこれからは純度が高いまま剥き出してボールを投げてみようと思っています。だからコミュニケーションが半分以上交通事故みたいな感じになると思うんですね。隕石が降ってくるというか。今まで隕石を細かく分散したり、隕石にネットをかけて衝撃を和らげようとしてたんですけど、もうそういう打算は捨てて隕石をそのまま落下させることにしました。笑

病んでるとか体調が悪いとかじゃないんですよ。破壊が正常運転な気さえしています。この文章もおそらく後日読み直すとすごく恥ずかしいことを書いていたなと思うかもしれません。しかし、それもまた現状を破壊できたことの証明なので「喜ばしい辱め」と言えるのかもしれません。

意外と素直な気持ちで書いたらブログも書けそうです。やっぱり隕石丸出しでいこうと思います。

にしけい

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書いている

西田 圭一郎

1987年富山市生まれ。工学修士。 商社の開発営業職を辞めて、占いや相術を生業にしています。本と旅とポケモンと文章を書くことが好きです。黒も好きです。どの国に行ってもスチューデント扱いされます。詳しくはこちらから。

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