娘が来年で小学2年になる。小学2年と言えば、僕は学習机の上にカルピスをぶちまけた翌日に大量のアリが学習机の上に集合していたのでアースジェットとライターで簡易的な火炎放射器を作ってアリたちを殲滅したことを思い出す。学習マットのプラスチックも少し溶けつつ、アリたちに火炎を浴びせて退治する光景は今もよく覚えています。
この話をすると「そのあとどうしたの?」「怒られなかった?」「注意されなかった?」と聞かれるのですが、そのあとどうなったかは一切覚えていないんですね。たぶん、親に叱られたとは思うんですけど、全然記憶になくて、逃げ回るアリたちを焼きまくる光景だけは覚えているんですね。たぶん楽しかったんだと思います。アリが焼け死ぬことよりも、自分でアイディアを出して、それを実験してみた結果うまくいった。それが楽しかった。そして、おそらくこういう快感のほうが強烈に残っていて、細かいことは覚えていないんですね。
そのような具合で、人生でいろいろやらかしてきているはずなんですが、あんまり「叱られた」ということを覚えていないんですね。それなりに叱られたり、注意されたり、苦い思いはしてきているはずなんですが「自分なりに考えてうまくいった」という記憶だけが都合よく残っているんですね。
何か起きた時それを「良い」ととらえるか「悪い」ととらえるかは、人それそれなんですね。すべてを「良い」と捉える人は「毎日いいことがあるなぁ」と思えますし、全てを「悪い」と捉える人は「今日もついていなかった」となるわけです。「今日もついていなかった」とか「私には悪いことしか起こらない」という人はおそらくすべて「私のまわりに起こることは悪い」とか「私の判断=悪い」と考えている可能性が高いんですね。
でも、何度もいうように出来事は「フラット」で「良し悪し」はありません。どう捉えるかは自分次第なんですね。
例えば占いでも「◯◯方位へ行ったから悪いことが起きたんだ」とか「△△星座だから今日はついていなかったんだ」とか「知能線が切れているから運が悪いんだ」とか、そういった「悪いこと」を探し、それを定着させるための理由づけに使う人たちもいます。
占いに限らず「会社が悪い」とか「社会が悪い」とか「政治が悪い」といった「悪いこと」の理由探しは、前提に「今自分は悪い状況だ」とか「今まで良いことがなかった」という考えがあります。
しかし、何度も言いますが現象や出来事に良し悪しは関係ないんですね。
「良いこと」だけを見れば良いことしか起きたことになりませんし、「悪いこと」を見なければ「悪いこと」は起きていません。全ては自分で作り出しているわけです。
自分の未来や可能性に蓋をしているのは自分自身なんですね。そして、蓋をすると「良い情報」や「新しい情報」が入ってこなくなり、悪循環に陥ります。せっかくのチャンスにも気づけなくなります。というか、世の中チャンスだらけです。正直、めちゃくちゃチャンスがいっぱいあります。「たくさん可能性がある」という前提で見れば一気に何でもチャンスに変わります。
これは生まれつきとか、誰々だからできるとか、生まれた環境とか、関係ないんですね。何度もいうように自分の生い立ちや素質を「悪い」と思い込んでいるのも自分ですし、それを変えるのは今日から、今からでもできます。
「自分には良いことしかない」とか「うまくいったことしかない」という考えも自分にとって都合のよい考えですし、「自分には悪いことしかない」「自分の人生は最悪だ」という考えも自分にとって都合の良い考えです。どちらも「自分にとって都合のよい考え」なのです。
それなら、より創造的で何かが生み出せそうで少しでも楽しくなりそうな「都合のいい考え」をしたほうがお得じゃないですか?
にしけい