崩し具合と再現性とライブ感

毎回、講座のテキストを一から作るor作り直しているのですが、講座の内容を考える時にいつも考えるのが「崩し具合」です。これが楽しくもあり、悩ましくもあります。

例えば、墓相講座も去年開講したテキストはかなりオーソドックスな感じで出来ていてるのですが、今年改めて眺めるとかなり固いというか、「それだけじゃないんだよな」という点が多々あって。でも、初めて墓相に触れるひとにとってはこういうオーソドックスなほうが分かりやすい気もするし…という具合で、崩し加減にいつも悩みます。

僕自身、自分の占いに対して「これでいいのか?」「もっと良い方法はないのか?」ということをいつも考えているせいか、自分自身のやり方を崩すサイクルが早いのだと思います。なので、テキストもちょっと前にやったものだと「古い」「固い」「もっといい考えがある」という風にツッコミがたくさん入ります。

そういうときにいつも考えるのは「残す」と「残る」の違いです。

やっぱり自然と「残るもの」は、グツグツ煮詰めて残った残滓のように、すごく濃いものな気がします。反対に「残す」「残そうとする」というものは、外部から力をかけないと残らないという点では脆いし、普遍性に欠ける気がします。

テキストや講座内容をバッキバキに崩すこともあるのですが、それでもやっぱり「残るもの」があります。「残るもの」の方が、エッセンスが凝縮されていきますので、お得だと思うのですが、それはそれで初めての人には食べにくく感じられたり…このあたりの匙加減が本当に難しいなといつも悩みます。

占いもそうですが、講座も「受け手」がいて初めて成立します。むしろ「受け手」のほうが主役だったりします。ある程度の道筋は作りますが、最後は受ける方次第で内容が大きく変わります。

なので、崩す要因を作っているのは僕だけだはなく、受け手によるところも大きいと思います。こういった受け手による「崩し」に対して「ペースを崩された」「話したいことが話せない」という風に守ろうとする、残そうとすると、やっぱりゆがみが生まれておかしなことになります。

人間が生き物という水のように不確定な存在である以上、そこから生まれる占いも講座も生き物です。この生き物たちが作り出す「ライブ感」が僕はとても好きです。今まで「当たり前」とされてきたルールや固定観念を自由に乗り越えて、振り回して、遊び道具にする奔放さが、生きている実感を与えてくれます。

こうして文章にしてみて考えがまとまったので、明日の墓相のテキストもやっぱり「今の自分」が考えていることを思いっきりぶつけてみようと思います。

「再現性」を求めようとしなくても、本当に再現性があるものであれば、勝手に再現されていきます。再現させようとしている時点で再現性は弱いのかもしれません。

 

にしけい

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書いている

西田 圭一郎 (にしけい)

1987年富山市生まれ。化学系工学修士。商社の開発営業職を辞めて、占いとWeb開発などを生業にしています。趣味は読書と旅とポケモン。文章を書くことが好きです。三児の父。詳しくはこちらから。

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