欲は方向性であり偏りであり、ただそれだけのこと。

 

真っ白な新品のテーブルを目の前に用意する。

このテーブルはさっき買ってきたばかりでなんの歪みもない。

ニトリの女性店員が何の違和感もなくバーコードを読み取り、僕の財布から引っ張り出した1480円と引き換えに提供してくれたテーブル。

これを僕は家賃8万円ほどの事務所の片隅に設置する。このテーブルの上に僕は、気に入ってやまないリンゴのマークが入った銀色のノート型パソコンを設置し、自分の存在を確認する作業に没頭する。

さて、このテーブルの上に、1本の新品の鉛筆を置く。

静岡の茶畑のような緑色のコーティングがほどこされた三菱の鉛筆。

これはまだ削っていない。そもそもこの鉛筆を買ってきたはいいが、鉛筆削りをもっていないことに気づいた。

鉛筆は六角形の面を真っ白なテーブルの面に接触させて置く。つまり鉛筆を「立てた状態」とする。茶柱が立つことを縁起が良いとされるが、これは茶屋が創出したデマだということを、自宅マンションのエレベーター内の右上のモニターに映し出される「今日の雑学」で最近知った。ちょうどその茶柱が立つように、鉛筆を立てる。

鉛筆はまっすぐと天を目指す。

しかし、ここで僕はテーブルの裏面に右膝をぶつけてしまう。

パタンと音を立てて、鉛筆が倒れる。

鉛筆にx軸とy軸の方向性が生まれる。

この方向性が生まれるということが欲の正体なのではないかと最近考える。というか前々から考えていたけれど、それをどう表現していいか考えあぐねていた。

方向性。かたより。

これが欲の正体で、この方向性が存在して初めて肉体や物体が生じる。

天秤。

片方の皿に大量の石ころが載せられる。空っぽの皿はより地面を離れる。重力。地球が作り出したと思われる方向性。この方向性に従って生きている。

僕たちが地球の方向性に従って生きているように、強烈な方向性をもった塊は、弱い方向性の塊を引きつける。大きなかたより。これが小さなかたよりをコントロールする。

この偏りは一方向ではないし、ときと場合によって、むしろ常に変化する。

右の天秤に大量の石ころが載っていたのに、振り向いた瞬間、電車のドアがしまった瞬間、この石ころが移動する。音も立てず、パッと左の天秤に移る。

コックリさんをする。

右手の人差し指をのせた五円玉が五十音の文字列の上を移動する。

このとき「か」ばかりに五円玉が移動する状態を「方向性が強い」つまり「欲が強い」とか「意志が強い」と表現される。

「か」だけではなく、「い」や「む」や「つ」や「て」や「じ」など、五円玉が移動する場所がさまざまな状態を「方向性が弱い」とか「意志が弱い」と表現される。分散している状態。

これは捉え方次第で逆転してしまうのだけれども、方向性の偏りが強いものを「陽」と表現し、方向性の偏りが弱いものを「陰」と表現している可能性がある。もちろん相対的だし瞬間的だから絶対的な陰陽は存在しない。

この偏りが小さいものはふわふわしている。鉛筆を10回倒して、上下左右バラバラに倒れる。これを「天の気」と表現してもいいし、その堆積物を「地」と表現してもいい。

この偏りが大きいものは、鉛筆を10回倒しても1000回倒しても右に倒れる。これを「地の気」と表現してもいいし、その集積物を「天」と表現してもいい。

このあたりは真逆の解釈・表現になっていたりして、混乱を招きそうなのだけれども、文字や天地を一度無視して「方向性の偏りが大きいもの」「方向性や偏りが分散しているもの」という捉え方で見直してみると、頭の中が整理できるのではないでしょうか。

方向性・欲・偏り・意志それが物体や肉体を作り行動や表現を生み出す。

どうもこの物質世界ではより偏った方向性をもった個が、良くも悪くも評価されるらしい。本当に良くも悪くも。

肉体が有る限り、どこまでいっても天秤を釣り合わせることは不可能だけれども、だからこそ憧れるのかもしれない。

にしけい

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書いている

西田 圭一郎 (にしけい)

1987年富山市生まれ。化学系工学修士。商社の開発営業職を辞めて、占いとWeb開発などを生業にしています。趣味は読書と旅とポケモン。文章を書くことが好きです。三児の父。詳しくはこちらから。

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