オーストラリアの空港には水飲み場があるんだけど、みんな結構マイボトルに水を詰めてる。日本よりもゴミを出さないようにしたり、環境意識が高い人が多いのかな。確かに、コンビニとかで500mLペットボトルの水を買うと4ドル(400円)ぐらいするから、水を詰められるのはお財布にも環境にもいいかも。
これまでにいろんな国に行ってきたけど、水道水の水を飲んでも大丈夫な国は初めてかも。普通にホテルの水も飲める。海外に来ているのに、便利すぎて感覚がバグってる。これは旅していると言えるのか。こんなにトラブルや困ったことがないと、撮れ高もないし不安になってくる。無難だと不安になる。心のどこかで有難を求めてしまっているような気がする。これがフラグとなるか、スルーされるのか。
水と多様性
オーストラリアのここ300年歴史を見ると、本当に悲惨な植民地化があって、なんともいえない気持ちになる。入植時代の直前には多様な先住民族たちがいて、250以上の言語が使われていたらしい。もともとあった多様性がヨーロッパによる入植によって壊された。でも、今オーストラリアに来てみると、また違った多様性が生まれいるようにも見える。多様な文化や考えを受け入れる土地柄なのかもしれない。
何かの本で「地表の高低差が生物や文化の多様性につながる」って読んだ気がするけれど、水資源も大事なんだろうな。輪廻転生思想がある地域は水がけっこう潤沢にある地域が多いし。目の前で何もないところから自然と植物の芽が出ているところを観察していると、「生まれ変わる」みたいな思想になるのかもしれない。砂漠地帯だと文字通り考え方がドライになるというか、ドライにならざるをえないのかもしれないほど過酷なのかも。
土地の性質や天候がそこに生きる生物や人間たちの性質に大きな影響を与えていると考えると、場をうまくコントロールできれば、そこに生きる人たちも平和に暮らせるのかもしれない。といっても、環境の差があるからこそ多様性があるわけで、それを意図的にコントロールするというのはナンセンスなのかもしれない。
家について
まだメルボルンとタスマニアしか見ていないけれど、家を建てる向きがかなりバラバラで、合理性を優先しているようにも見える。日本も確かにバラバラな地域もあるけれど、まだオーストラリアよりは向きが揃っていると思う。建物の形や屋根の色なども統一感がなくて、家の建て方も多様性が感じられて面白い。青山霊園のお墓たちみたいに、それぞれがそれぞれのやり方で建てられていて、ちょっとしたカオスが感じられる。広々としてせかせかしてない東京って感じ。
建物と土地と人々を観察しつつ、旅は続きます。
にしけい