昨年末に、エネルギーの話という本を書きまして。
我ながらここまでよく気づいて言語化できたなと思える1冊で、毎年毎年「これ以上大きな発見はできないと」思うのですが、それを越す(それよりも外側から包括するような)概念が生まれている気がします。
エネルギーの話に書いたことを軸に改めていろんなものを見渡すと、それを裏付けるような現象や記録がいっぱいあります。
一応、占いをちょっとかじって細々と占いを生業にする身としましては「運」や「幸不幸」といったものにアプローチする場面が往々にしてあります。
トラブル、事故、病気、死…そういったものがどうして起きてくるのか、全てエネルギーで説明ができてしまいます。
同書にも記載しておりますが、社会的にうまくいくかどうかとエネルギーを作り出すことができるかというのはまた別の軸なんですね。「エネルギーをもっている」と「エネルギーを作り出せる」は違うんですね。
それで、何かに絞るというのは僕自身あまりしたくないのですが、読者の方はやはり「どうやってエネルギーを生み出すのか」という点に興味があると思いますし、僕もそれについてよく考察します。
それで、ひとつわかってきたことは「境界性」というものが邪魔になっているということです。
「自分」が存在している、理由・意義・答え・使命といったものは「自分」を固定させ、境界性を高めます。「自分は自分」という状態ですね。肩書き・立場・性別・特異性といったありとあらゆる言語化されたものは「自分」を強めます。
境界性を高める戦略が悪いわけではないのですが、こればかりに傾倒していると、トラブル、事故、病気、死といったものがより近づき境界性を無くそうとしてくるわけです。
つまり、全ての生物や生命はおそらく「エネルギーを作ろうとする」という共通の課題をもっていて、そのエネルギーを生み出すための方法の1つに「死」というものがあるようです。
何度も言いますが、「境界性」というものがエネルギーを生み出す上で邪魔になっているのです。境界性があることでエネルギーを一時的には「もっている状態」にできるのですが、生み出すことは出来ないんです。
この境界性というものを壊すためにはエネルギーが必要になると考えていたのですが、最近これは逆なのだなと気づきました。エネルギーを生み出すために壊す必要があるのです。つまり、「今までの自分」とか「固定された自分」を壊すことができれば、そこからエネルギーを生み出す循環に入っていくんですね。
そうなってくると「(肉体的に)死んだ人」というのは大きなエネルギー生成の循環に入っているので、生者を恨むとか呪うという余地もないぐらい心地よいはずです。
死者の怨念のようなものはおそらく死者ではなく生者が作り出している可能性が高いです。生きている人間が死者を祀り、固定化させるわけです。死人の言葉として、強烈な定着・固定化・縛りを設けるわけです。
心地よい深い眠りに入っているときに起きたいです?起こさないで欲しいですよね。寝ようとしているのに、起こそうとしくるからイラッとするわけです。そういった妄想もまぁ生者がやっているわけですね。それを活用しようというのが、お墓だったり儀礼だったりするわけですけども。
話は逸れましたが、境界性を取っ払うのであれば、どんな方法でもいいんですね。
建っているビルをぶっ壊してサラ地にするようなもので、建っているビルによって「かける強さ」が違いますし、外から力をかけなくても自然と壊れちゃうビルもあります。今にも崩れそうなビルをなんとか壊れないようにするのが「境界性」なんですね。つまり「固定させようとしている」時点で、何かしらガタが来てるんですね。
だって、壊れていると認識しないと「直そうと」しないわけじゃないですか。補修とかしないですよね。自分が作った砂の城が壊れてきているから、新しい砂を足して固めようとするわけですね。でも、壊れていいんですよ。
でも、壊すことに固執するのも、それはそれで境界性なので、難しいですよね。破壊や革命にこだわるのもそれはそれで線引きしちゃっているわけなので。
というわけで、(いつも通り)取り止めもない文章になってしまいましたが、だいたいエネルギーの問題だということが分かってきたので、これをどう実践していくか、応用していくか…ということですね。
先人たちの試みを一度インプットするのもありですし、ご相談の場面で個々に合ったものを生み出す必要がありそうです。(みんな同じ壊し方っていうのも、なんだかナンセンスでしょうし)
にしけい