【枯れるのも作戦のひとつ】植物の生存戦略から僕たち人間が見習うべきもの

年末に購入したクリスマスローズ。おそらくクリスマスの売れ残り。店頭で寒そうに3鉢並んでいました。

買ったばかりのクリスマスローズ。青々としていて美しいです。

クリスマスの売れ残りと言えど、寒空の下でも背筋を伸ばして青々としている様子になぜか惹かれて購入。

それから1ヶ月がたつとこんな感じに。

 

葉が所々枯れ落ちたクリスマスローズ

 

おいおい、にしけい。ちゃんと水やりしているのか?手入れしているのか?とお叱りを受けそうですが、作業部屋においているので毎日顔を見て話しかけて水を与えています。なぜこんなに葉が枯れ落ち元気がないのか。それはこのクリスマスローズちゃんが自分で勝手に葉を枯らし始めたからです。この期に及んで他人のせいにする、にしけい。本当にひどい男です。でもちょっと僕の言い訳を聞いてください。

徹底した環境適応戦略

店頭の気温はこの時期0〜10数度ぐらいだったはずですが、部屋の中は僕がエアコンを使っていることもあり20度以上はキープしています。日照条件も異なります。今までいた環境と違う環境に置かれたこともあり、これまで生えていた葉や花では合わなくなったので、彼は容赦なく自分の葉を脱ぎ捨てて、新しい環境に適した葉を生やし始めたのです。

植物のすごいところはとにかく「環境適応力」です。「枯れ落ちて死ぬこと」も含めて、すべて環境適応で無駄がありません。今まで青々と生えていた立派な葉もすべて「合わない」と感じたら容赦なく切り捨てるのです。植物は動きません。しかしこの瞬時に切り替える適応力は見習うべき点です。

環境が大きく変わると、人間は慣れるまでに時間がかかります。場合によってはもともといた環境の慣習や固定概念を捨てきれず、対応できないこともあるでしょう。気学私見録という本にも書きましたが、年齢を重ねるごとに「変化」への対応が追いつかなくなります。考えや環境が凝り固まった人が、引っ越しや入院などで急激に環境を変えるとそれが大きなストレスとなり致命傷となる場合があります。気学における「凶作用」というものも、このように「変化に順応できないこと」で起きていると僕は考えています。

このクリスマスローズも一生懸命生やした葉や咲かせた花を「捨てたくない」と考えていたかもしれません。でも、彼は容赦無く自分の「過去の努力や蓄積」を捨て去り、新たな環境へと適応したのです。新しく生えてきた葉は以前よりも小さいため日照条件が良くなり、湿度が高いため葉の密度も小さくて済むと判断したのかもしれません。彼の姿を見ていると過去の栄光や努力に浸っている場合ではないなと、改めて考えさせられます。

 

全体が生きればいいと考えている容赦なさ

植物は個の境界線が人間よりも希薄です。というか個というものが「無」に等しいかもしれません。いやいや、そんなことを言ったって植物だって個性やクセがあるよね、と思われるかもしれません。

でも、考えてみてください。あなたの腕をぶった切って放っておいたら、そこから「新しいあなた」は生えてきますか?

もし今の自分の職場で「この仕事もうだめだ」と判断したら、その職場で適当な異性を見つけて子を残し、自分がやれなかった仕事をその子どもにさせて自分は死にますか?

植物はこういうことを容赦なくやっています。「自分」じゃなくても全体として「種(全体)」が残っていけば、それでいいと考えています。そういう戦略なのです。「自分」というものにこだわりがないのです。だから自分の体も環境に合わなかったら切り捨てたり、すぐに新しい命にバトンを託したりします。

地に生えてはいるものの、彼らはとらわれていないのです。動物ほど動けないけれど、自由に臨機応変に生きているのです。自分が枯れ死ぬことも自由なのです。

植物を見習って「個」にとらわれないように生きるというのは難しいかもしれませんし、履き違えると共産主義のような思想に近づくかもしれません。しかし、学ぶべきものはあります。動けなくても、動かなくても、自由になれるのです。

「個性が大事」「個の時代」といったようなことをちょくちょく耳にしますが、もしかすると人はより不自由になっていっているかもしれません。より生きづらくなっていっているのかもしれません。「個」が強まるとき、そこには必ず「分断」があります。あなたと僕のあいだに明確な境界があるから「違い」がはっきりします。分断をつきつめていった先には、対立や批判が起きます。そして1/2n(n→∞)なのでだんだん小さく、薄くなっていきます。混じり合わずにどんどん遠くなるわけですから分断し続けた先には「誰もが触れ合わない」世界ができてきます。植物と人間は対極の生存戦略をとっています。

植物には「個」がないので「食べられること」も生存戦略のひとつと言えます。人間に栽培され消費されてはいるものの、種としては存続しています。むしろ安定した環境で子孫を残すことができるので、ある意味農業は人間が植物たちに利用されている側と言えるかもしれません。自分で自分の子を育てようと頑張るのではなく、他の動物や人間に子育てを委ねているのです。自分の子が生まれてすぐに知らない誰かに任せるわけですから、徹底して「自分がやらなきゃ」というような固定概念を排除しています。現代の日本でそのようなことをやると「育児放棄」や「虐待」扱いになりますが、植物は容赦無く自分の種(たね)を人間や鳥などの動物に委ねているのです。

昔、とある宗教団体に潜入した際に「肉や魚は食べてはいけませんが、植物は食べてもいいのです」と言われ「なんで植物はだめなんですか?植物も生き物じゃないんですか?」と生意気な質問を返したことがあり、そのときは明確な答えが返ってこなかったのですが、ようやくわかりました。植物を食べることは植物にとってもメリットがあり、むしろ植物を食べることは植物の繁栄につながるのです。植物に支配されていると言っても過言ではありません。

しかし、あまりにも「個の犠牲が種全体の繁栄につながる」ということを賞賛しすぎると「生贄」や「人身御供」といった概念を肯定することになりかねません。こういった「個の犠牲」を推奨する時代のほうが植物の戦略に近かったのかもしれません。そう考えると、もしかすると植物と人間の祖先は同じで、人間も人間で「時代に合わせて」個を伸ばすように進化してきたのかもしれませんね。

どちらの戦略が正しいかどうかは議論しませんが、学ぶべきところは学んで取り入れていくことでより生きやすくなるかもしれません。

この記事は植物を枯らしてしまったときのそれっぽい言い訳にも使えますので、子々孫々「にしけいポン」を語り継いでいってくださいね。

これが僕の生存戦略です。

にしけい

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書いている

西田 圭一郎 (にしけい)

1987年富山市生まれ。化学系工学修士。商社の開発営業職を辞めて、占いとWeb開発などを生業にしています。趣味は読書と旅とポケモン。文章を書くことが好きです。三児の父。詳しくはこちらから。

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