混沌を抱えた分だけ発見がある

より大きな混沌(疑問)を抱えて、それに挑んだ人が見出した答えや法則をより小さな混沌を抱えている人が認知しても理解できない。また、その答えや法則を無理やり理解・実践しようとしても必ずゆがみが生じる。

「なぜそれを疑問に感じたのか」を前者と同程度理解できれば、自ずと答えが見えてくるし、理解ができる。しかし、そうではない場合両者のあいだには「同じ言語」であっても「同じ文章を読んでいても」理解の度合いは天と地ほどの差が生じる。

という現象がけっこうな頻度で起きている気がする。

「より大きい」とか「より小さい」といったスケールではなく、着眼点がそもそも違うというか。

 

オムライス異物混入事件

 

例えば、飲食店に行く。

オムライスを注文する。

Aさんが注文したオムライスに「コバエ」が入っていた。

Aさんは憤慨し、店員を呼び寄せた。

こういった「事件」のようなものがある一種の「混沌(疑問)」となる。

Aさんは店員に「なぜ、虫が入っているんだ!」と怒りと疑問をぶつける。

「なぜ?」と問いながらも心のどこかで「この程度の虫が入る可能性は確かにありうる」という推論がすぐに立つため、混沌(疑問)は比較的小さい。

店員は「おそらく厨房の衛生対策の不備で…外から入ったのだと思います…次からは気をつけます…」といったようなことを述べて陳謝する。すると、Aさんはとりあえず納得して「あの店の料理は虫が入ることもある」といったような情報を記憶して帰宅する。

 

次にBさんが同じようにオムライスを注文する。

お腹が減っていたので、思いっきりスプーンをオムライスにつっこむ。

すると、スプーンを介して「何か硬いもの」がある…。

そしてこれは、弾力があって、丸いもの…しかもかなりの大きさ…。

こんな具を入れてくれと注文しただろうか…?

 

中をほじくってみると、出てきたのは人間の眼球だった…!

Bさんは悲鳴を上げ、スプーンを放り出し、椅子から転げ落ちる…!

「な、なんだこれは!!」

すると、後ろからBさんの従兄弟のタカノリが呻き声をあげながら入店してくる…そして、タカノリの右目が黒く陥没して流血していることに気づく…!

「うあああ、、、、Bくん、、、、助けてくれええええ、これ見てくれよおおおおおう」

「オムライスの中のもの=タカノリの眼球」というひとつの仮説がつながる!

「ひぃいいい!なんでタカノリくんの目がぁああああ!!どうして!!!誰が!!?何が!!!??」

BさんはAさんよりも大きな大きな混沌(疑問)に包まれる。文字通りこれは「事件」だ。

Bさんはこの混沌(疑問)を晴らすために、ありとあらゆる調査をした…もちろん警察も探偵も知りうる限りの手を打った。

その結果「タカノリが過去に強姦した女性がこの飲食店の店長の娘で、店長はその復讐のためにタカノリや彼の親族を探していた」という事実が発覚した。

AさんとBさんの身に起きた出来事は「飲食店で注文したオムライスに混入してはいけないものが入っていた」という点では同じ。

しかし、混沌(事件/疑問)の度合いは圧倒的に違う。そして得られた結果や情報も全く違う。

この事件のあと、BさんはAさんに「あの飲食店の店長は…オムライスを食べようとすると、かくかくしかじか、強姦は絶対にしてはいけない」と語ったとします。

Aさんは「強姦はしてはいけない」という情報としては理解できます。しかし、抱えた混沌(疑問)が違いすぎて「なんでBさんはこのようなことを言うんだろう?」とよく理解できないでいます。

それでもBさんがあまりにもハッキリとした口調でそれを伝えるので、Aさんは「大事なことを知った」とか「これは真理なんだ!」というような気持ちになります。

これが書籍や伝言だと「背景」が抜け落ちていることがよくあって、極端な例ですが「従兄弟がいる場合はオムライスに注意」というような表現がなされる場合があります。

この部分だけ読んだ人は「なぜ従兄弟がいる場合はオムライスに注意なんだろう?」と疑問に思います。

こうやって例え話にすると「AさんはBさんの言葉を本当に理解したのかな?」と思えてくるのですが、冒頭に述べたように

より大きな混沌(疑問)を抱えて、それに挑んだ人が見出した答えや法則をより小さな混沌を抱えている人が認知しても理解できない。また、その答えや法則を無理やり理解・実践しようとしても必ずゆがみが生じる。

ということがけっこう見受けられるのです。

Aさんがその後も一生懸命、Bさんが伝えた情報を理解しようとしても、理解したフリをしたとしても、そこにはゆがみが生じてしまい、本当に理解できずに終わってしまうのです。

このAさんのような現象、占いも含めてですが「研究者気質の人」によく見受けられます。

要するに「疑問(混沌)」を強く抱えずに、「より深い混沌を抱えた人が見出した答え」だけが与えられてしまうものだから、ゆがみが生じるのです。

場合によってはBさんを神格化することで、理解できない自分を慰めようとしたり、Bさんが発見した言葉や歴史を知らない人たちを攻撃したりするのです。これも「理解できない自分」を慰める行為と言えます。

 

混沌は現実の中にある

書籍や伝承は情報を軽くするためにデジタル化されている場合がよくあります。ある意味「すっきり」していますが、先述したように詳細が抜け落ちていることもあります。

言葉や情報としては理解できるので、それを知ると「すべてを知ったような」気持ちになることがあります。

よくあるのが「男は○○だ」とか「日本人は○○だ」とかです。

短くデジタル化されているので理解はしやすいのですが「実際」と違っていることもあるし、その法則に当てはまらないこともたくさんあります。

Aさんのように「Bさんの言葉を自分は理解できる」と思い込んでしまう人にならないためには、より多くの混沌を抱えるしかありません。つまりより大きな疑問をもつしかありません。

この疑問を感じさせてくれるのが「現実」です。

現実はアナログで、より多くの情報があります。そしてその中にはまだまだ「よくわかっていないこと」がいっぱいあります。そのような混沌があることを受け入れて、それに立ち向かうことで「より大きな混沌を抱えた人」と同じ情報量レベルに達して自然と「理解」できるようになるはずなのです。

現実でうまくいかないことや、よくわからないことから逃げたり避けたりし続けると、言語が支離滅裂になったり、排他的になったりしていきます。プライドだけが高くなっていきます。

つまり「机上論」や「虚」ばかりを追い求めていると、逆に何も得られなくなり、わかるはずだったものもわからなくなります。

自分が抱いた疑問(混沌)に今の自分ができる限り真面目に向き合っていく。

背伸びをせず、素直に、実践していくのみです。

本当に遠回りに見えることが近道なのだと思います。

にしけい

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書いている

西田 圭一郎 (にしけい)

1987年富山市生まれ。化学系工学修士。商社の開発営業職を辞めて、占いとWeb開発などを生業にしています。趣味は読書と旅とポケモン。文章を書くことが好きです。三児の父。詳しくはこちらから。

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