「維摩経」であなたもいっぺん、死んでみる?

最近、維摩経というものにハマっています。「ハマる」ということはこの維摩経の考え方的にはアウトなんだけど、なぜこのように面白い仏典があることを知らなかったのか後悔していると同時に知れてよかったなと思っています。

維摩経はクセが強い維摩居士(ゆいまこじ)にスポットライトを当てた経典で、大乗仏教の走りの時代(飛鳥時代とか)に書かれた仏典なのですが、今読んでも非常におもしろいです。

何がおもしろいかというと、維摩さんが仏教界のお偉い人たちをバッタバッタと論破して「ぐぬぬ…」になっていく展開が非常に爽快なのです。そしてただバッタバッタと切っていくだけではなく、その問答を通してきちんと仏教の本質を伝えているところに心打たれるのです。

破壊を通して再構築することでより自由になれるというか、とらわれることを離れることができる…ということなのですが、やっぱり人というのはなかなか「自分」を捨てられません。

例えば、僕も「手相が好き」だったし「手が好き」だったので「手が好きなキャラでいこう」と意識しなくても手に固執していたのですが、やっぱりどこか「キャラ作り」みたいなことを意識していたところはあったと思うのです。つまり「にしけい=手」みたいな前提があったわけです。

維摩経はこの「前提」をとにかくぶっ壊します。アイデンティティを壊すわけです。「自分探し」とかじゃなくて「自分壊し」です。

僕の手キャラぐらいならまだしも、仏陀の未来仏とされる弥勒菩薩に対しても「未来とかなくて”今”しかないんだから、あなたの未来仏って設定おかしいんじゃない?」と維摩さんはキャラをぶっ壊しまくります。

ピカチュウに「電気を出すネズミと言えど、生物は何かしら帯電しているから特にその設定に意味ないんじゃない?」といった具合に「前提」をぶった切るのが維摩経のおもしろいところなんですよね。

それでなぜこんなに維摩経が好きかというと自分自身既に結構維摩経的なことを実践していたなーという気がするからです。「前提破壊」です。「そもそも吉凶ってあるの?」とか「占いってあるの?」みたいなところにツッコミを入れたり、年に1個絶対自分がやりたくないことをやるようにしているのも「自分破壊」につながっていたのだと思います。

何冊か本を買って読んでみたのですが、僕も含めて「維摩経はじめて」という人にはNHKの100de名著がオススメです。これを読みながら文庫本の現代語訳経典を読むとサクサク理解できました。

特にこの本で書かれている釈徹宗さんの解説がわかりやすい上におもしろくて

「すべての執着を捨てよ」という教えは、その教え自体にも執着するなということです。すごい話ではありませんか。ある宗教体系がその内部に自己否定を設定している、そう考えることができます。こういう宗教体系はなかなかありません。

いわば「脱構築装置」(構築されたものの内部から揺さぶりを起こし、体系を再構築していく装置)とでも言うべきものが、仏教には内臓されているということです。

 

この部分は本当に同意です。

自分自身教室や講座をやっていますが毎回生徒さんに「この講座で言っていることを疑ってくださいね」と口酸っぱく言っています。とにかく「とらわれない」「こだわらない」こういうスタンスでやっていくことができれば、非常に世界が広がりますし柔軟な判断ができるようになります。

ちょうど綜合占術講座の1回目の授業で似たようなことを話していて、これを維摩経が改めて言語化してくれたような気がして「そうそう!それそれ!」と興奮しながら読み込みました。

誤解をおそれず言うならば、占いの本質は「無責任」です。自意識(自己)に依存しないように、「我」を離れるための儀式なのです。表面的な感情、世間体、常識、自分がもっている固定観念、これらを捨て去ることが占いの機能なのです。

手段や入り口は何でもいいのです。占いをより上手に使いこなすには、より無責任に、より自由になることが大事なのです。「赤ちゃんの乳離」「若者の車離れ」といった言葉があるように、占いは「自分離れ」のためのシステムなのです。

(綜合占術講座1テキスト 占い=八岐大蛇を離れるための儀式 より)

 

思い込み、とらわれ、こだわり

 

なんでもそうですけど、だいたいうまくいかないときって「思い込み」があるんですよね。

「これをやっちゃだめ」とか「これじゃなきゃだめだ」とか「他のものは許さない」とかそういう「固まった考え」があると幸福度が下がって、実情としてもうまくいかなくなるんじゃないかなと思っています。

何かに特化する、専門にする、集中する…というのはそれはそれでメリットはあるのですが、問題はそういったものをパッと手放せるかなんですよね。集中や夢中は「自分離れ」のためのひとつの手段なのですが、これが中途半端だったり「見せる用の専門性」だった場合、いつまで経ってもどこにも到達できないんですね。

適切な例えかわからないんですが、書棚にズラッと専門書を並べて「どうだすごいだろう、こんなに大量の知識情報を自分はもっているんだぜ」と言わんばかりに見せる。

本当に本が好きで読みふけっているのではなく「誰かの目を気にした上での読書キャラ、専門家ぶる行動」みたいな感じですかね。相手をチラッチラッと気にしながらマスターベーションするみたいな、そういう違和感を感じてしまう人の場合、おそらく「知識があること」「もっていること」にとらわれているので「本当の集中した状態」ではないのだと思います。

僕のカメラの師匠はとにかくカメラを撮っていないと体調が悪くなる…というぐらいカメラ狂なのですが、中には「カメラを撮ってる自分が好き」「カメラをやってると言いたい」だけの人もいます。なんだろうな、こういうことが見え透いてしまうと、途端に萎えてしまうのは、おそらく大元を辿れば「とらわれている」ように見えるからなんだと思います。

と言いながらも、自分にもそのような側面がまだまだあるので、どんどん自分をバラバラにしつつ、素直にやっていこうと思います。

維摩経については他にも考えさせられるものがたくさんあったので、ボチボチ考えをまとめていこうと思います。

「あなた」も維摩経でいっぺん、死んでみる?

にしけい

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書いている

西田 圭一郎 (にしけい)

1987年富山市生まれ。化学系工学修士。商社の開発営業職を辞めて、占いとWeb開発などを生業にしています。趣味は読書と旅とポケモン。文章を書くことが好きです。三児の父。詳しくはこちらから。

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