前記事:【三話目】オウム真理教(アレフ)という宗教団体に触れて感じたこと。
「殺されても感謝できるか?」
ヨガ教室(アレフの入信予備講座)に通っていて、とても印象に残っているのはこの質問でした。
ある男が集団に囲まれて、強盗され、殺されました。
しかし、その男性は殺される直前に「私の悪い業(カルマ)を取り払ってくれてありがとう!」と叫びながら死んでいきました…という内容のDVDを見せられたあとに
「にしけい君は、自分が殺されそうなときに、自分を殺そうとしている相手に”ありがとう”と言えますか?」
と、ヨガの先生からニコヤカに質問されました。
もちろんですが、こんな質問を投げかけられたのは人生で初めての経験でした。
このヨガ教室(アレフ)が僕を洗脳し狭い世界へ閉じ込めようとすればするほど、僕の中の凝り固まった田舎者特有の「常識」というものをぶっ壊してくれました。
二十数年間生きてきて、僕は知らず知らずのうちに少ないながらも「常識」というものを抱えて生きていたのだなと痛感させられました。この質問に対して僕は「わかりません」と答えました。
悪い業(カルマ)を取り去るうんぬんの仕組みはさておき、もしかすると自分が死ぬことで誰かの命が助かるとか、そういう超特殊な状況を考えたときに、もしかしたら「ありがとう」と言ってしまうのかなと思ったからです。
それまでの僕だったら「言えるわけない」と即答していたはずですから、逆洗脳は成功しつつあったのです。
悪いカルマって何?
そもそも「悪いカルマを取り去ること」自体が「自分のため」であり、エゴなのではないか。という新たな疑問が発生し脳内ラットがゴールのない思考迷路に足を踏み入れてしまったのです。
結局「善」とは何なのだろうか。業(カルマ)とは何なのだろうか。悪いカルマを積み続ける人がそれを払拭することは可能なのだろうか。それを救済することは果たして「良いカルマ」になるのだろうか。
その優しさは「お節介」になり、相手が修行するチャンスを奪ってしまうのではないだろうか。
僕の頭は凝り固まるどころか、夏休みの宿題でせっかく紙粘土で貯金箱を作って提出したのに、こっそり教室から持ち帰り、破壊してまた新たなものを作リ出すような、そんな煩わしい思考ループに入っていったのです。
というか「悪いカルマ」を前世から来世にもちこすのであれば、今世はプラマイゼロぐらいの感じで生きていければそれでいいんじゃないか(どうせ覚えていないし)…とか。
最終的に考えるのがめんどうくさくなっていつも通り生活していました。
クンダリーニ覚醒
4ヶ月目ぐらいだったでしょうか。通い始めて半年も経っていなかったと思います。富山の実家で飼っていた愛犬が17歳でその生涯を終えたという知らせが入ってきました。
母から電話でその報告を受けたのですが、母の鼻をすする音につられ、自然と涙が出ていました。僕が9歳のときから飼っていたラブラドール・レトリーバーです。
兄弟のように楽しいことも辛いことも一緒に過ごしてきて、家族も同然だったので、やはり離れて暮らしていたとは言え、彼を失った悲しみは大きかったです。
その知らせを受けた夜もヨガ教室にせっせと行きました。
だいぶクンパカ(息を止める行法)もうまくなってきて3分ぐらいは息を止めていられるようになっていました。そして瞑想の時間も長くなっていました。
シャバアーサナと瞑想を繰り返し、かなり深い瞑想に入れるようになっていました。
「短期間でここまでいける人は素晴らしいです」と先生に褒められて、そのときは素直に嬉しかったです。
日に日に座学などよりも「慈愛の瞑想」の時間が増えました。
「慈愛の瞑想」をすると、自分の肉体が熱の粒子になってパーっと散っていくような感覚がありました。
そして、愛犬が亡くなった日は「彼が安かに過ごせますように」という気持ちで慈愛の瞑想に取り組みました。すると、このとき自分の尾てい骨のあたりがグググッと熱くなり出しました。
仰向けで寝た状態で、目は薄目を開けボーッとしているような状態です。眉間に意識を集中させてゆーっくり呼吸していると、自分の背骨が鉄のパイプになり、その中を温かいお湯が通っていくような感覚になったのです。
「ナーディを通って頭に温かいプラーナが流れる」クンダリーニ覚醒者たちが口を揃えて言う「クンダリーニの瞬間」と同じ体験をしたのです。すごい。これがクンダリーニ覚醒か!
僕はしばらく恍惚としていました。
射精の20倍とまではいかないけれど、3〜4倍ぐらいは気持ちよかったです。
女性のオルガズムは長いと言われておりますが、こんな感じなのかなと思いました。
僕は自然と涙が流れていました。慈愛の瞑想の途中で亡くなった愛犬を思い出していたこともあったかもしれません。初めての感覚に興奮していたのかもしれません。
おそらくですが、僕はこの日、クンダリーニを覚醒しました。
クンダリーニ覚醒して…そして?
【序】にも書いたようにクンダリーニはヨガの行法のひとつで「悟りの境地」と言われております。この境地に到達したくて様々な過酷で長い修行を皆さん試みるわけですが、僕は4ヶ月ぐらいで到達できてしまったのです。
「素質がある」と言われ確かに嬉しかったのですが、クンダリーニを覚醒させ恍惚とした世界に到達したあとに見る「現実世界」はとても冷めて感じました。
「悟り」と呼ばれるクンダリーニを覚醒したあとそれで人生が劇的に変わって幸せになったかと言われると、実際は全く変わらない毎日でした。
睡眠時間もやっぱり7時間以上必要だし、覚醒した翌日には「確かに気持ちよかったけれど、そこまでもてはやすものなのか」という疑問が湧いてきました。
確かに穏やかには過ごせるし、その分誰かに優しくなれるのかもしれない。しかし、それでも「争い」や「怒り」を完全にゼロにすることは不可能だということを悟ったのです。
射精の3〜4倍気持ちいい経験をしても「それはそれ」であって、それでまわりの人たちがハッピーになったかと言うとこれも全く変わらずで、正直クンダリーニはマスターベーションなのではないかと思い始めたのです。
それを極めていくとさらに見えてくる境地というものもあるのでしょうけれども、悪しき業(カルマ)を払拭し、良い業(カルマ)を蓄積することとクンダリーニは全く別物だと直感的にわかりました。
「(占いで)まわりの人たちを幸せにしたい、役に立ちたい」と考え、そのヒントが得られると見込んで飛込んだヨガ教室。
そのヨガ教室が「最高の体験」と称しているクンダリーニ覚醒。
このクンダリーニ覚醒と「誰かの役に立つ」ことが、どうしても線で結ぶことができなかった。
僕のナーディはまだまだ細くて汚れていたのかもしれない。
けれど、覚醒後に感じた虚無感。湧いて出た「この世界って本当に現実世界なのかな」という疑問。
これらは一体何なのだろうか。本当にこのヨガで誰かを幸せにできるのだろうか。
自分のためにやると自覚してやるならあり
クンダリーニ覚醒のために修行されている、されてきた方々には申し訳ないけれど
僕はこの修行を「自分以外の誰かのためにやっている」というのであれば、飛んで行って「ダウト!」と叫びたい。
クンダリーニ覚醒のための修行はエゴであるとハッキリと言いたい。
しかし当時の僕も「自分以外の誰かのために(占いを)やる」という動機が、いかに不純でエゴなのかに気づいていなかった。
「役に立つ」「幸せにする」「導く」といった言葉を使いながらも、結局それは自分のエゴであって、単純に自分が手相や占いを好きでやっているだけなのではないだろうか。
エゴの域を脱していないのではないだろうか…と考えるようになったのです。
存在や行動や言動はあくまでもフラットであり、プラスマイナスゼロであり、そこには特に何の意味もない。
そこに存在しているだけで、陰と陽が混じり合って均衡をとっている。それだけ。
そこに意味をつけたり「良し悪し」を設定するのはすべて「受け手側」である。そしてこれは「受け手張本人以外」は誰にも触れられない領域である。
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