なぜ「導く」という言葉に違和感を感じるのか?
個人的な意見ですが、「導く」という言葉と、この言葉を多用する人に強い違和感があります。一言で言えば好きではない言葉です。 なぜ「導く」という言葉に違和感を感じるのか。改めて「導く」を抽象化して再考してみました。 抽象化し
人間観察
個人的な意見ですが、「導く」という言葉と、この言葉を多用する人に強い違和感があります。一言で言えば好きではない言葉です。 なぜ「導く」という言葉に違和感を感じるのか。改めて「導く」を抽象化して再考してみました。 抽象化し
どんどん壁が迫ってくる部屋。狭くなる。縮んでいく。「焦り(あせり)」は「焦点」という漢字と同じように、focus によって起きます。「フォーカスする」と「フォーカスさせられる」というのは同じようで全然違います。 対象の外
例えば、あなたが「城之内ミッシュールさーん!」と声をかけられたら反応できます? 「え?自分?」となりますよね。 そうなんです。「自分」に関係なさすぎることって反応できないんです。 自分がどうしたいのか、何を
完全に分離、つまり分断が起きると、分断された対象は認知できません。これは遠くの国で起きている戦争が「別世界」のように感じるのと同じで、遠すぎる場で起きていることは認知が難しい。しかし、遠くの国で起きている戦争でも、その地
ここ最近のテーマは「特定の場との同化」ということについて考えていて、自分なりに「こうかな?」という答えが見えてきたので、書いておきます。 エネルギーの話という本を書いてから、同化の使い方について模索していました。そこから
「暇」の正体は何なのか? 「暇」という概念を抽象化していくと「他者に実体を見せていない(ひとりの)時間」と説明できます。 例えば、会社とか学校で誰かに姿形を認識されているときは「他者に実体を見
「興」というのは、何かと何かが混ざって無意識的な特定の方向性が発生することを指します。 混沌から上昇する何かが生まれるまでの過程を「興る」と言います。「おこる」は「怒る」と「起こる」も似たようなニュアンスになります。何か
多分僕はやっぱり「分かるようになる」プロセスが好きなのだと思います。 「分かろうとする」ではなく、試行錯誤していると「分かってくる」という感覚です。 「分かろうとする」というのはどうしても意識的になります。焦りが出たりし
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