本当に「対等」というものは存在するのか?

真の「対等」というものは存在するのでしょうか?というお話。

よくケンカや争いが成立しないことを「同じ土俵に乗らない」と言います。「同じ土俵」を英語で書こうとして、安直に「same stage」と表現したのですが、何かしっくりこなくて。実際は「equal stage(対等な場)」という表現のほうが正しいのかもしれません。土俵はレイヤー構造になっていて、上下(外内)があるわけです。二者が同等の高さ(equal level)ではないと戦いは起きません。

人々の議論っぽいものを観察していると、ギャースカギャースカと騒いだり、一方的に攻撃的になっている方に共通することは、自分は攻撃対象と対等(以上)の立場にいると勘違いしている場合が多いんですね。自分も同じ土俵に乗っている、口を挟んでも良い。自分は相手と対等以上の立場だという「前提」があるわけです。

「自分は不当に扱われている」という苛立ちや怒りというのも、この「自分は相手(他者)と対等以上の立場だ」という前提があるせいなんですね。この前提を疑わずに強く固定されていくと、誰とでも不毛な争いが起きます。

「もしかすると、自分は相手と対等ではないかもしれない。同じ土俵にすら乗っていないかもしれない」という考える余地が少しでもあると、苛立ちや攻撃性は低減すると思います。

よく車の運転をすると気性が荒くなる人がいますが、「道路」という場所が「同じ土俵」だと思い込みやすいからなのかもしれません。もちろん同じ土俵と言えば、同じ土俵なんですけどね。視覚情報としても「対等な立場」に見えますからね。

でも、本当に「対等な立場」というのは存在するのでしょうか?わかりませんよね。立場という概念すら思い込みかもしれません。もしかすると心のどこかで「自分は対等以下かもしれない」という劣等感のようなものがあるからこそ、「対等以上だ」と思い込みたくなるのかもしれません。でも、この「劣等感」も自分で勝手に作っている妄想です。勝手なセルフイメージです。それが強く固定されるほど、「対等以上の立場」を求めるのかもしれません。となると、「見下す」という行為自体が、自分自身を見下しているから起きる行為なのかもしれません。

対等・劣等・優等いったことを決めるためには軸を固定する必要があります。頑なに固まる、頑固になると「対等な場」を意識してしまうのかもしれません。立場というのはフラットでカチカチな土俵のようなものではなく、トランポリンのように変化しやすいものなのかもしれません。variable variable。

にしけい

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書いている

西田 圭一郎 (にしけい)

1987年富山市生まれ。化学系工学修士。商社の開発営業職を辞めて、占いとWeb開発などを生業にしています。趣味は読書と旅とポケモン。文章を書くことが好きです。三児の父。詳しくはこちらから。

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