なんで理由は必ずひとつなの?部分が全部になったときの危険性と非建設性

何かうまくいかないことがあったときに、それを特定の誰かのせいにしたりすることってありますよね。これは何をしているかというと「部分」を「全部」として捉えているんですね。

例えば、自分の仕事がうまくいかないときに、「あいつが悪いんだ」「社長のせいだ」といった具合に「特定の人物」や「特定の何か」といった、「特定の部分」が現状の全てを作っていると考えてしまう状態ってすごく危険なんですね。

現状を作る要因って本当は複数あって、無数にあって、何が原因なのか1つに絞れないはずなんです。僕すごく違和感を感じるんですけど、「理由」とか「動機」みたいなものが「必ず1つ」とは限らないのに、なぜかこう「1つに絞らせようとする風潮」が根付いていると思うんですよね。

例えば、僕が蕎麦を打ち始めたとします。そうすると「なんで蕎麦を始めたんですか?」って疑問が湧きますよね。そのときの「理由」とか「動機」って1つだけじゃないと思うんですね。いろいろあるし、もしかしたら理由とか動機とかないかもしれない。なのに、なんかこう「ひとつの結果には必ずひとつの理由がある」という「One Result One Reason」が前提があると思うんですよね。

会社の面接でも志望動機とか聞かれるじゃないですか。あれも複数あるかもしれないし、本当はないかもしれないのに、「それっぽい1つ」に絞って「御社のビジョンに共感したからです」とか答えるんですよ。それで、それにみんな納得したふりをするわけですね。なんじゃそりゃって感じしませんか。

これは冒頭に書いた、「部分が全部になっている状態」を作り出す背景になっているんじゃないかなと思うんですよ。

事件が起きたら「誰か1人」を悪者扱いし、素晴らしい業績には「誰か1人」を褒め称える。本当はそれは「一部分」かもしれないのに、それが「全部」のように切り取るわけです。そりゃそのほうがわかりやすいっすよ。何か1つに絞ったほうが他のことを考えなくていいからわかりやすいんですよ。省エネですよ。

「全部私が悪いんです」っていうのも同じです。これはこれで極端で、見ようによっては「全部私のおかげです」って言っているのと同じぐらいすごく傲慢に映る発言ですよね。

原因や理由を1つに絞って限定することで、時には捏造することで、思考を停止させて省エネで暮らせるのは、確かに大きなメリットかもしれません。でも、それってあんまり建設的ではないし、同じような過ちを繰り返してしまう可能性があるんですね。

2時間サスペンスで船越英一郎が犯人を崖に追い詰めて、犯罪の動機を問い詰める場面でだいたい最終的に「憎かった」とか「羨ましかった」といった「一言」に集約されてしまうんですけど、結果に至るまでの動機が5000個ぐらいあってもいいと思うんですよね。体調を崩したりした時も原因が1つだけじゃなかったりするじゃないですか。いろいろ重なって風邪を引いたりするわけです。

「顔が悪いから恋人ができない」とかも同じです。なんで結果に対して1つの理由に絞ってしまうのか。絞ってしまったら他の理由の候補が消えちゃうんですね。もしかしたら、恋人ができないのは顔じゃないところに理由があるかもしれないのに。それを考えるきっかけや可能性を自分で消してしまうんですね。

1つに絞ると確かに楽です。決めつけるのは簡単です。でも、より建設的に何かを進めるためには、たまには「もう一度迷ってみる」というのもありだと思うんですよ。本当にそれが理由なのか。本当にその部分が今の自分の全部を作っているのか。それをもう一度考えてみることで見えてくるものもあると思うんですよね。映画のエンドロールに名前が載らない人たちがたくさんいることを思い描くように、「今のあなた」ができるまでに無数の人や要素が関わっているはずなのです。

にしけい

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書いている

西田 圭一郎 (にしけい)

1987年富山市生まれ。化学系工学修士。商社の開発営業職を辞めて、占いとWeb開発などを生業にしています。趣味は読書と旅とポケモン。文章を書くことが好きです。三児の父。詳しくはこちらから。

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