「もっと○○したいです」
「じゃあ○○したらいいじゃないですか」
「今の△△をやめたいです」
「じゃあやめたらいいじゃないですか」
このあとに続く「できない理由」はどこからくるか。それは「おそれ」です。
何をおそれているのかを問答&観察しているのですが、どうやら「何かを失うこと」をおそれているようなのです。
それでよくよく聞いてみると「失うもの」なんてひとつもない人がけっこう多いです。
生活?お金?地位?立場?家族?
「は?失うものなくない?」って状況なのに「やりたくないこと」にしがみついているんですよ。
で、この「失うものなんてないはずなのに、漠然とした失うことへのおそれ」というものの根幹にはどうも「特定のゴール」というものを植え付けた洗脳システムが働いているようなのです。
ゴール信仰・正解信仰
なんか人生には「こうすると正解でそれが人としての究極のゴールだ」みたいな思い込みをもっている人が今もけっこういるんですよね。これは老若男女問いません。働き方とかも無関係です。
ゴール信仰というのは、例えば「いい大学に入って、大企業に就職して、長期間働いて、家族をもって死んでいく」というようなゴールを設定して、それに向けてレールを敷く考え方です。
「自分にとっての正解はこれだ」「うちの子にとっての正解はこういう生き方だ」というような「正解」を求める考え方です。
確かに「目的」とか「ゴール」とか「正解」があったほうが、それに向かって猛進(盲信)するだけでいいので、楽なんですよね。正解に近いことは良くて、正解から逸れることは悪。こういう判断基準ができるから楽なんです。
でも、それが強すぎると「正解から逸れている自分はうまくいっていない」とか「この歳で結婚してない人ってどうなの?」といった「傷つける方向性」が生まれます。差別するようになるわけですね。自分も他人も。
そして「正解」や「ゴール」から離れることは「悪」であり「おそれ」を生み出す原因になっているようです。
植え付けられた?本当にそうなの?
「教育」とか「親」から「ゴール信仰・正解信仰」を植え付けられた場合もあるようです。
「あなたはお姉ちゃんなんだから我慢しなさい」とか「トラブルを起こさないようにしなさい」とか謎ルールを強いられて「正解信仰」を洗脳されてきたパターンです。
しかし、突き詰めていくとそこにも因果関係はあるように見えてありません。上記のような教育(洗脳)を受けて育った人でも「ゴール信仰」を破壊して楽しそうにやっている人もいますし、やっぱり最終的にはその本人が「ゴール信仰」や「正解信仰」を採用しているようなのです。
なぜ、それを採用するの?楽だからです。でも先述したようにゴール正解信仰は「自分や誰かを傷つける要因」にもなります。というか、時代の流れから見ていると「傷つける要因にしか」ならないようにも見えます。
ゴール信仰が生み出した試行錯誤させない環境
人生のゴール?結果?
本当にそんなものがあるのでしょうか。あなたが設定している「ゴール」や「目的」は果たして本当にそれでいいのでしょうか?
正直人生はどこまでいっても「過程」です。どこまでいっても「道中」なんです。
あてもなく走り続けるバスのようなものです。
「ゴールにたどり着けば幸せ」という人は「たどり着くまでの道中」をどう過ごすのでしょうか。ずっと仏頂面をしてバスに乗っているのでしょうか。
隣の座席の人ととお菓子を交換したりしないのでしょうか。休憩所でトイレとかしないのでしょうか。ひるがの高原パーキングエリアでたこ焼きとか買って食べたりしないのでしょうか。
たとえ目的地にたどり着けなくても途中が楽しければ自分を許せるかもしれません。逆に道中苦しかったのに目的地にたどり着けなかったら二重苦です。「あのときお菓子交換しておけばよかった。何我慢してたんだろう」って楽しまなかったことを後悔するかもしれません。
この「ゴール信仰」は間違いなく「試行錯誤」しにくい環境を作っています。
なぜなら「レール」からはずれた人を強く否定したり、復帰しにくい雰囲気を作り出してしまうからです。
20代そこそこで「自分がやりたいこと」なんて決められる人なんて少ないですし、50歳すぎてようやく「やりたいこと」が見つかる人もいます。あとは「途中でなんかやりたいこと変わった」という人もたくさんいると思います。
なぜ「自分に適した環境」が見つからないかというと「実験しやすい環境」が整備されていないからです。
そしてその根底には「ゴール信仰」「正解信仰」によって「右へ倣え」をさせようとする人たちや時代があったからであり、その仕組みを採用している人がいっぱいいるからです。
ゴール信仰を採用することは悪くないのですが「採用していない人」もいます。「他人の評価や他人が作ったレールがどうでもいい人」です。
そういう人を否定するのではなく「採用していないだけなんだ」と認めることができれば、逆に自分が困ったときに助けてもらいやすい社会になるのではないかなと思います。
「おそれたあと」どうするか?
ゴール信仰に洗脳されている人の特徴として「できない理由」(=言い訳)を並び立てる人が多いです。
「でも」「だって」「だけど」といった言い訳です。
「おそれ」が強いので、聞いてもいないのに「できない理由」を並びてて守ろうとしているんですね。
おそれが強い人ほど、うるさい。
— にしけい/Nishikei (@nishikei_) June 12, 2020
「うるさい」というのは情報量の多さや声の大きさとは無関係。
好きなラジオや音楽は「うるさい」と感じない。soundとnoiseの違い。— にしけい/Nishikei (@nishikei_) June 12, 2020
僕の脳内のヤンキーにしけいが「うるせーな、バカ。言い訳してんじゃねぇ」と指をポキポキ鳴らすのですが、おそれること自体は悪いことじゃないんです。生きるためには必要なんです。
問題はそこから「どうするか?」なんです。
例えば「仕事をやめたら生活費が心配なんです」で止まっている人が多いのですが
「今の仕事をやめたあとでも暮らしていくにはどうしたらいいか?」ということを具体的に模索しようとする人って本当に少ないんですよね。
今の家よりも家賃が安いところを探したり、保険料とか携帯代とかいろいろ見直したりしてみると、案外「今の仕事やめてもいいじゃん」ということがよくあります。今はネットがありますから、いくらでも情報が転がっています。
結局「正解」とするものがあるから、それを「守ろうとするプライド」が発生して、保守的思想につながって不幸の悪循環がスタートしてしまう人もいます。
どこまでいっても主観でしかない
ちなみに、ここまで説明した「正解信仰」「ゴール信仰」というのは「自分以外の誰かが作った正解やゴール」という意味合いが強いです。とは言いながらも自分の都合の良いように解釈したりしていることがほとんどなので客観性はありません。
どこまでいっても主観しかないので、客観的最高というものも存在しなければ客観的最低というものも存在しません。
つまり「自分1人でも正解だと思っているならそれはそれでいいのでは?」という話です。
もう他人が作ったゴールや正解に縛られる必要はないので、この記事の内容も忘れてくださって大丈夫です。
パン!(拍手)
はい!もうこれであなたはこの記事のことを忘れました!
にしけい