不幸でないと困る人たち(悲劇のヒロイン症候群)

※この記事を読んでいる途中でキツくなったら、この記事の内容が当てはまっているかもしれません。

大きく分けて人は2つに分けられます。

「幸せになりたい人」と「幸せになると困る人」です。

「みんな幸せになりたいのでは?」と思われるかもしれません。ええ、そうです。本来はそうなのです。しかし幸せになってしまうことで不幸になってしまう人もいます。不思議な日本語なのですが、実際そういうことがありえるのです。「悲劇のヒロイン症候群」という言葉があるように、ヒロインになりたい人はたくさんいます。「ヒロイン」としていますが、これに性別は関係ありません。ヒロインということは「主人公」であり、物語においてもっともスポットライトが当たる人物です。いろんなスポットライトの当たり方はありますが、悲劇のヒロインは「不幸であること」でスポットライトがあたります。つまり「不幸だ」と嘆いている人の中には「スポットライトを浴びるために」不幸を演出している人がいます。

実は「不幸」というものはそれを不幸だと認識しなければ不幸ではありません。つまり、悲劇のヒロインを演じたい人は「不幸」に対して敏感になっています。こんなことがあった、あんなことがあった、まわりにこんな困った人がいる…何も起こらなければメディアの記者のように「不幸のネタ」を探しにいきます。

もしあなたが悪魔だったとして、誰かにイタズラをします。イタズラされた人物が「もうやめてくれ〜」と困り苦しむ様子を見ると「自分のイタズラが効果的だった」と味をしめてもっとイタズラをしてやりたくなります。しかし、何度イタズラしても何のリアクションもない人物には心折れてイタズラをやめてしまうかもしれません。僕が悪魔だったらすねてイタズラする対象を変えるか家に帰ってYoutubeでも見ると思います。

しかし、不幸ではないと困る人は悪魔と結託しているかのように、何度も何度も不幸なことが起こります。まるで「悪魔さんこちらへきてください」と言わんばかりに、次から次へと不幸なことが起こります。なぜこのようなことをしてしまうのかというと、不幸は簡単に注目や同情を得られるからです。

一言で言えば「かまってちゃん」であり、控えめに見えながらも実は自己顕示欲の塊なのです。異性にモテたいとか、チヤホヤされたいとか、あとは「頑張っているね」と褒められたいとか、そういった動機から不幸を作ろうとするのですが、いかんせん不幸は比較的簡単に捏造・製造することができるためコスパが良いのです。本当は何か憧れとする対象があったり、変化したいという願望があるけれど、それをするには怖いとか、できないと思っているとか、そういった理由から、いとも簡単に称賛や注目を浴びられる「不幸」を作り出すのです。

不幸を望んでいる人に「解決策」は薬ではなく毒なのです。悲劇が終わってしまえば、スポットライトが浴びられなくなります。解決策を求めているように見えて、実は心の底では求めていません。「解決策を求めている悲劇のヒロイン」という状況を望んでいるだけなので、その中身はちっとも興味がないのです。興味があるフリをして、頑張っているフリをして、実はちっともそれは必要としていないのです。追いかけていないと物語が終わってしまう。スポットライトを浴びられなくなるからです。

何度も同じような種類の不幸が訪れる、何度も同じような失敗を繰り返す、何度も同じような人物から被害を加えられる。こういった「何度も同じようなことが続く」場合は、高い確率で悪魔と結託しています。つまり自分で不幸に手を伸ばしています。そして、それを誰かに話したり、伝えることで物語が作りあげられます。本質的・根本的な部分を変化させなくてもいいので、とっても楽チンです。一度「不幸によって満足を得ること」に成功すると、それが常套手段になり不幸誘致に依存する傾向があります。不幸であることがアイデンティティのほとんどを占めてしまうようになる場合もあります。文字通り「病みつき」になってしまうのです。

根本的な原因は何なのか。一言で言うと「自信がない」のだと思います。自己否定というか、満たされないと言うか。過去に満たされすぎた経験があるとか、満たされなさすぎた経験があるとか、そういったことが原因になっている場合もあります。もともともっている「満足の閾値」が高い人もいますし、特定の何かに認められれば満たされる人もいます。例えば「父親に褒められたかったけれど、お父さんは死んでしまった」という場合、父親のような人に振り回されることで幸福を感じることもあります。いろんなパターンから不幸を作り出す行為に走るわけですが、正直それは本人がやりたくてやっていることなのでどうしようもありません。

ここで大事なことがまわりの対応です。まず、不幸を作りたい人は「不幸をさらに助長させてくれる演出」を好みます。つまり「同情」とか「○○ちゃん辛いのに、すごいね」といった称賛です。占い師とか宗教といったものもたびたび演出の材料に使われたりもします。とは言いながらも本人は自覚がありませんから、なんとも言いようがありません。とにかく過剰にリアクションを取らず、否定もせず、放っておくことがポイントだと思います。

もちろん「不幸が欲しい人」を対象にしたビジネスで食ってる人は需要と供給がマッチしていますので、もっと上手にやるのでしょうけれども、僕は「不幸の助長や演出」というものに全く興味がないので、淡々と話を聞いて適した解決策や方法を提案するだけです。先述したように「不幸を求める人」というのは「追いかけている自分」が好きなだけの場合もあります。なので、一生懸命肩入れして時間やエネルギーをその人物に費やすことは無駄だったりしますし、それは悲劇のヒロインの思うツボなのです。相手の時間とエネルギーを吸い取る実感が得られることで満たされるのです。適度に距離をとりつつ、でも否定をせずに「そうですか、そうですか」と淡々と対応することも時には必要になります。

一番おもしろいのがですね、不幸を求める悲劇のヒロインの近くに「正義感を振りかざして自分を満たしたいヒーロー」がいたりすることです。これが非常におもしろいんです。需要と供給がマッチしているというか。お互いが自分の欲求を埋めるためにつながっているんですね。本当に綺麗にハマります。不幸を演出する人物に対して、それを一生懸命「なんとかしよう」と近づくわけですが、それはそれで「助けている」「救っている」「役に立っている」「貢献している」と思いたいがための行為なので、相手を思っているようで全く違ったりします。しかし悲劇のヒロイン側も注目を浴びられるわけですから、相性としては悪くないわけです。でも、テキトーな表面的なつながりなので、いざというときにはすぐに破綻します。

赤川次郎の「霧笛荘夜話」という小説の中に、何の不自由もなく暮らしていた女性がその生活をすべて捨てて、全く違う名前・人格として生きていこうとする話があります。その女性は自分が憧れる人格を作ろうと、まわりの人たちを利用するのですが、巻き込まれる側としてはたまったもんじゃないです。しかし、同じように自分の何かを満たしたい人はフラフラと引き込まれて巻き込まれていくわけです。しかし、すべては需要と供給がマッチしているだけなので、一種の美しさすら感じます。

あとは不幸のヒロインというのはメディアのネタにもなりやすいので、不幸になれば注目を浴びられる…という構造はなかなか壊れないでしょうね。「不幸だったけど今はこうして幸せがある」とか、「不幸なことがあったけど、今賢明にがんばってこうなっている」といった「落として上げる」というシナリオはストーリーとしては鉄板中の鉄板ですからね。

「不幸→努力→幸せ」という物語は実際たくさんあると思います。それ自体が嘘ともダメとも言いません。しかし、それに憧れたり酔いしれたりしすぎると、結局現実が見えなくなります。ドラマがあったほうがドラマとしてはおもしろいんですけれど、悪魔と手を組んで作られた不幸、演出された不幸ということが見えすいてしまうと、面白みに欠けます。

「面白み」という点では、不幸なことがあったけれど「笑い話」に変えられる人は、おそらく不幸を求めていません。ちゃんと「オチ」をつけて「私、だまされて500万払ったの!それで最終的に○○になったの!笑」「こういう男がいてさ〜!ウケル!」という風に完結させられることは「不幸」の切り離しができているので、不幸になりたい人を卒業したい人はやってみてもいいかもしれませんね。

僕は現状を変えたいと思っている人は全力で応援したいと思います。でも、飽き性なので、同じようなことを繰り返している人、止まっている人には何の興味関心も湧きません。だってYoutubeのゲーム実況配信で、マリオが同じクリボーに当たり続けるところが続いたら飽きません?
2,3回目までなら「またか!」と突っ込めますけど、これが20回、30回と続いたら飽きてくるし「この人クリアする気ないな」って思いますよね。このクリボーに当たりたくて当たりに行っているんじゃないかって疑いたくなると思うんです。

あと僕は虚飾めいたことを言うのが苦手なので、本当にすごいと思ったら素直にすごいと言うし、大したことないと思ったら何も言いません。なので僕に「ほめてほめて」「見て見て」とアピールするのはお門違いというか、需要と供給がマッチしないのでやめた方がいいと思います。そういうのが好きな人はそういうのをしてくれるところに行ってください。

あばよ!!

にしけい

にしけい (西田圭一郎)

1987年富山生。工学修士。商社の開発営業職を辞めて、占いや相術を生業にしています。三児の父。本と旅とポケモンと文章を書くことが好きです。学生気分が抜けません。詳細はこちらから

にしけい (西田圭一郎)

1987年富山生。工学修士。商社の開発営業職を辞めて、占いや相術を生業にしています。三児の父。本と旅とポケモンと文章を書くことが好きです。学生気分が抜けません。詳細はこちらから

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