人間の行動原理のほとんどが「おそれ」由来だったりするんじゃないかって、最近考えています。
「悪いことをして死んだら地獄に行くぞ」とおそろしい地獄絵図を見せつけ「正しいこと」をさせようとした時代。
「信じるものは救われる(信じないものは救われない)」とおそれを煽り人々の心を支配した時代。
遠い過去のように見えて、現代にもこの「おそれ」による支配やコントロールはおそろしいほど残っています。
そしてこの「おそれ」による支配は巧妙化しているようにも見えるのです。
「働かなかったらこうなるぞ!」
「自分で稼がなきゃ死ぬぞ!行動しろ行動!」
「結婚しなかったら幸せになれない!」
地獄絵図の巻物を人々に披露して「ヒッ!おそろしや〜!」と言わせて特定の行動を促す行為は今も行われていて。
実は「自分がおそれている」ということに気づかないように、うまく隠すようにして恐怖を煽っているものがたっくさんあります。
「おそれ」は生存する上で必要な感情なので、決して切り捨てることはできないのです。
なので、この「おそれ」を巧妙に煽ることで、感情を揺りうごかすことで、エネルギー(お金など)が動きます。
「恐怖するな」というのは「食べるな」「呼吸するな」と同じぐらい無茶な注文なんですね。だって生存本能なんですもの。
でも、この誰かが作り出した「おそれのもと」にあおられたり、自分自身で過剰に「おそれ」を感じてしまうと途端に大きな精神的負担になってしまいます。
一見、「前むき」で「ポジティブ」で「積極的」な行動だったとしても、その行動原理の根本が本当は「おそれ」だったりする場合もあるわけです。
「勉強するぞ!」「働くぞ!」と意気込むのは、もしかすると「おそれ」由来だったりする場合もあります。
「よりいい暮らしをしたい」「バカにされたくない」といった誰かが創り出した「おそれのもと」に煽られているかもしれないわけです。
もちろんこれが原動力となっていろんなものが生まれてくることもあります。
でも、自分の原動力が本当は「おそれ」だと気づかずに行動していたとしたら、それはそれで自分を苦しめることになります。
「おそれ」には「吸引」の作用があります。
吸引が進行すると「固」が起こり、それが「個」を強め、さらには「孤」になっていくのです。
例えば「誰にも頼れない」とか「自分が頑張らなくてはならない」とか「迷惑かけないようにしなくては」といった「おそれ」は度がすぎると最終的に「孤立」を生むわけです。
「おそれ」は非常に見えにくいです。現代の「おそれ」は巧妙に隠れています。
自分が恐れているということに気づきにくいのです。
あなたの「やっていること」「やろうとしていること」「がんばっていること」は本当にやりたくてやっていることなのでしょうか?
「何かをおそれている」がゆえの行動ではないでしょうか?
おそれには「吸引」の作用があります。
何かを集めたり、勉強したり、インプットしたりするのはいいことです。
でも、その原動力が「おそれ」である場合もあります。
「なぜそれをやるのか?やっているのか?」をもう少し深掘りしてみると、また違った行動になるかもしれません。
秀才と天才の違い。
前者は「おそれ」が強めで、後者はそれが弱い気がする。— にしけい/Nishikei (@nishikei_) 2019年3月19日
最近「おそれ」について観察思考することがちょっとマイブームです。
こんなことを書くと読者が離れていくのではないかとおそれていまs…
にしけい