【好き嫌いはどこから生まれる?】What you don’t want to see is “you”

完全に分離、つまり分断が起きると、分断された対象は認知できません。これは遠くの国で起きている戦争が「別世界」のように感じるのと同じで、遠すぎる場で起きていることは認知が難しい。しかし、遠くの国で起きている戦争でも、その地域に友達がいるとか「自分とのつながり」のようなものがあると、距離は縮まります。

となると、物理的・時空間的な距離や分断はあまり関係がないようにも見える。ただ、やはり「認知できないもの」は「好き」とか「嫌い」といった判断すら発生しません。「無関心」とすら認識できない領域があります。この領域に存在するものは、好きか嫌いか、是か否かということすら判断できません。ということは「好きか嫌いか」という「判定」が発生するのは、主体が存在する場と近接・類似したものになります。(先述したようにこれは時空間的な場とは無関係です)

フィクション作品の舞台は、遠い存在どころではなく「現実には存在しない世界」であるにも関わらず、好き嫌いが発生します。人間は物理的・時空間的な距離を超越して「好き嫌い」を判断することができます。

あなたが「好きか嫌いか」を判断しているものは、まず「類似性・近接性」があります。

ハーレクインのBL小説で「これは良かった」「これはダメだった」と判断している時点で、あなたはハーレクインのBL小説を認識し、あなたの中に何かしらの類似性や近接性があるのです。知らない人は知らないですし、書店に行ってもそのようなコーナーがあることすら認識していません。

類似性というのは「共感」や「共鳴」にもつながります。先述しているように「遠すぎるもの」は共感できません。遠く離れた戦地で泣いている少女の気持ちに共感できるかというと、「人間」という大きな括りであれば心が動かされるかもしれません。もしその少女と同じぐらいの年頃の娘がいたり、知り合いがいたりすると、共感が起きるかもしれません。

何をお伝えしたいかという「好き嫌い」「快不快」といった感情が発生しているものは類似性や近接性があります。なので、まず「誰かに好かれたい」「何かを好きになりたい」という場合は線引きせずに「近づくこと」が必要になります。接触・接点がないと好きか嫌いかすら判断できません。

「自分がやりたいことがわからない」「自分が何が好きなのかわからない」という状況は「自分の世界」と「自分以外の世界」を分断している状態で発生します。これって実はすごく傲慢で寂しい状態なんですね。なぜかというと、「自分」と「自分が見ている世界」を分断しているわけですから、自分が存在している世界を否定していることになります。

その前提には「自分はもっと特別な存在だ」とか「自分は◯◯だ」という固執があります。「自分」と「自分のまわりで起きていること」を分断しているということは孤立しますし、無責任な状態とも言えます。線引き・分断して「認識しないようにしている」わけです。何を認識しないようにしているかというと「自分」です。そして、多くの場合「自分の中の不快なこと」「認めたくないこと」を切り離そうとします。

おそらく「嫌いなこと」というのは「自分と類似性・近接性が強すぎるもの」です。生物は「全く同じ」「混ざっている状態」を拒否します。近親交配を禁忌としているのは、生存に不利な遺伝子が顕在化しやすく、遺伝性疾患が発生しやすくなるためです。「同じすぎる」「近すぎる」と「嫌い」や「不快」になる可能性があります。(もちろん近親交配が全て悪いというわけではありませんが)

となってくると「好き」というのは「類似性は高いけれど、高すぎないところ」に起きる可能性があります。これは生命がエネルギーを生み出したり、新しいものを創出する際にも「判断軸」になっています。

「自分が既にもっているもの」と全く同じものを取り込むとエラーが起きるのは、エネルギー生成や環境適応においてロスでしかありません。「飽きる」というのもそれに近い感情で、それを通り過ぎると「不快」になります。

 

簡単にまとめると

 

違いすぎる→遭遇・認識できない(好き嫌いが発生しない/無関心)
似ているけれど違う→好き(快)になる可能性がある
同じすぎる→嫌い(不快)になる可能性が高い

 

「似ているけれど違う」というものの中にも「より類似性・近接性が高いもの」は「嫌い寄り」になっていきます。

「嫌いなものが多い」「不快だと思う人が多い」という状態は、既に「多くのものと同化していて類似性が高い」ことを認めていることになります。外から見ると本当は違うんですけど、「自分のまわりにいる人は自分と同じだ」と認識しているときに「不快」がたくさん起きます。そんなことを言うと「自分は違う!」「あいつと私は違う!」と反発したくなると思うのですが、反発すればするほど「類似性」が強いと認識していることになります。

「好き嫌い」って先天的なものもあるんですけど、後天的にも変わるじゃないですか。幼少期から好きなものが変わらないという人もいれば、変わる人もいます。環境や場が変わると好きだったものが嫌いになったり、嫌いだったものが好きになったり。これがすごくおもしろい現象だなーと考えていまして。

拒絶するってことは「同化しすぎて自分が消えてしまうこと」なのかもしれません。その石に触れると成仏して消えてしまう…だから、その石から必死に逃げようとする。「自分が消えてしまうこと」というのは「怖いこと」ですし「不快なこと」です。しかし、一方で「自分が消えることで得られる安心感」もあります。

本当の自分の姿は「嫌だと思うもの」の中にあるのかもしれません。

 

あなたが見たくないものが「あなた」です。
What you don’t want to see is “you”.

 

認めたくないけど、だいたいそうなんだよなー。笑

にしけい

ブログ記事一覧へ

関連する記事

書いている

西田 圭一郎

1987年富山市生まれ。工学修士。 商社の開発営業職を辞めて、占いや相術を生業にしています。本と旅とポケモンと文章を書くことが好きです。黒も好きです。どの国に行ってもスチューデント扱いされます。詳しくはこちらから。

お仕事など

Previous slide
Next slide
お買い物カゴ
上部へスクロール