【自尊心をコスパ良く満たす】若者に偉そうに「説教」するようになったら…

高校生とか自分よりも10歳も20歳も若い方と接すると本当に考えさせられることがたくさんあります。

ひとつは「説教するのって本当に楽チンなんだな。自分が若者に偉そうに説教するようになったら殺して欲しいな」ということです。のっけから過激です。笑

10年、20年と長く生きていると、経験したことや見聞したことは多くなります。10代の方と接していると「そうか、自分はこの人たちよりも長く生きている分、経験していることが多いな」と実感します。

 

桃太郎をどこまで読んでいるか

 

 

 

この10代と30代の違いを「桃太郎の物語をどこまで読んでいるか?」で例えてみますと…

10代「桃太郎が生まれたところ」まで読んだ。
30代「桃太郎がきびだんごで猿を仲間にしたところ」まで読んだ。

こういう違いです。

10代の方が「桃太郎はこの後どうなるんだろう」と悩んでいたとしても、30代の僕は「その後、おばあさんからキビ団子をもらうから時間が解決してくれるよ」みたいなアドバイスが出てしまいます。これが説教の正体です。

知ってしまうと、知らなかったころの悩みを悩みようがないのです。経験してしまうと経験したことがなかった頃と同じ様に悩めないのです。

10代の方から占いのご相談があったときに、ハッとしました。僕はいつから「大人側」から意見を述べるようになったのだろうか。ちょっとでも偉そうな態度を取ってしまいそうになった自分にすごく嫌気が差しました。「にしけい、お前が偉そうに説教するなんて1000億年早いんじゃないのか!」と。

それと同時に、桃太郎を最初の方しか読んでいない人に対して、桃太郎を読んだ人が「まぁ〜もうちょっと読み進めれば(大人になれば)、わかることだよ〜」だなんて、偉そうに説教することは如何に簡単で、生ぬるいことをしているかに気づいてしまいました。

説教って思ったより「簡単に自尊心を満たせる」ようです。持っているか持っていないか。知っているか知っていないか。その違いだけで偉そうにマウントを取ったり、ドヤるわけです。コスパがいいんですよ。「自分よりも持っていない人に対してドヤる」というのは非常に簡単だし、軸が固定された旧態依然の寂しい大人がすることなんです。

「説教」と「語る」の違いは「エゴが入るかどうか」の違いかもしれません。説教って「説教する側」のためにやってるんですね。だから、冗長的で、一方的で、要領を得ないのだと思います。相手を思いやるなら、貴重な時間を奪わないように端的に用件を伝えます。「愛ある説教」なんてありません。説教の時点で愛はありません。「エゴのある説教」しかありません。

勉強のために占われに行くのですが、僕を見て自分よりも若いと判断すると説教を始める人もいます。占っていないんですね。「それはあなたの主観ですよね」と返すと「生意気だ!」とキレる。もうね、僕がもしこうなったら、本当に殺して欲しいです。ゾンビと同じです。生きながら死んでいるのと同じなんです。蔓延させちゃダメなんです。許しちゃだめなんです。

説教をするということは「経験値」が少ないのかもしれません。手札が少ないからこそ、出せそうな相手には、ここぞとばかりにドヤる。それが説教なのかもしれません。

自分の子供たちを含め、これから自分より若い人たちが増えていきます。若い人たちから学ぶことも増えてくると思います。自分が「持っている側」「大人側」だと錯覚して、それに心酔しているようでは、少しずつ楽しみや可能性が減っていくのではないかと思います。

 

にしけい

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書いている

西田 圭一郎 (にしけい)

1987年富山市生まれ。化学系工学修士。商社の開発営業職を辞めて、占いとWeb開発などを生業にしています。趣味は読書と旅とポケモン。文章を書くことが好きです。三児の父。詳しくはこちらから。

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