風林火山で有名な武田信玄(1521年-1573年)。
甲斐(現在の山梨県)を拠点にしながら周辺地域を征服し、甲州(甲斐地方)を統一しました。彼は軍事的な才能と戦略的な判断力を持ち、敵対する勢力との戦闘や外交策略を駆使して領土を拡大しました。
甲州だけではなく、周辺の国々に進出し、箱根や駿河への侵攻を試みました。これにより、武田家の勢力範囲は甲州を超えて拡大し、東海地方や関東地方にも多大な影響力を与えました。
甲府駅には大きな信玄像がありますが、甲府の方々が彼の功績を讃えたくなる気持ちがよくわかります。
誰が天下を取るかわからない、戦乱の世の中で戦さに勝利しつつ領地を拡大していく…
混沌の世で「勝ち続ける」というのは本当にすごいことです…僕ならすぐに諦めて里山で静かに暮らすと思います。
桶狭間(1560年)の戦いでも、信玄は巧妙な策略により、織田信長を追い詰めることに成功しました。
この戦いは、彼の優れた戦術と軍事的な才能を広く示す結果となり、武田信玄の軍事戦略におけるエッセンスをまとめた「甲陽軍鑑」は江戸時代には出版されて広く流布し、読み物として親しまれました。
武田信玄は軍事的な面だけではなく、統治した国のインフラ整備(治水や物流)を行ったり、地方行政の組織化や支配体制の整備にも力を入れました。攻めだけではなく守りも固かったのです。
茶道や歌道や武芸なども嗜み、書物や史書にも精通していたと言われますし、まさに文武両道を絵に書いたような人物で、進研ゼミの広告マンガに出てくる(進研ゼミをやってる)先輩のようなリア充フィーバー状態です。
それでいて、武田信玄は倫理と道徳を重要視し、軍人としての優れた品性や人格形成を追求しました。自身の行動や統治において公平さ、正義、倫理的な判断を尊重しました。
こんな甲府が誇るパーフェクトヒューマン武田信玄ですが、ちょっとだけ親近感が湧くポイントがありました…
武田神社に保管されている「占い結果」の巻物
甲府ご相談会が終わったあとに僕は急いで「武田神社」に向かいました。
武田神社は甲府駅から北に坂道を歩いて30分、バスだと10分ぐらいで到着します。
武田神社はその名の通り、武田信玄を御祭神として祀っています。
武田神社の横には「宝物殿」があり、そこには武田信玄が「易占をした結果を記した巻物」があるらしいのです…!
ダメと言われると見たくなる
武田信玄はどのような占いをしたのか…!!
しかし、宝物殿に入るも、それらしいものが見当たりません…!!
(宝物殿の中は撮影禁止でしたので写真はありません)
一度、武田神社の社務所にもどって巻物について聞いてみましたが、やはり武田神社にもないようです…。
諦めきれず宝物殿の受付の方に改めて聞いてみると…
『実はこの展示物の奥にあって、今は展示していないんです』
(ショーケースを動かしながら)
「あ、こんなところにあったんですね!」
『はい、あるにはあるんですけど、閉じられて表紙しか見えません』
「えー!このガラスケースは開かないんですか?」
『はい、神主が鍵を管理していて開かないんですよ…神主は今祭りに出ていて不在なんです』
「この中が見られる日は来ますか?」
『ちょっとわからないですねェ…申し訳ございません…』
「そうですか…」
『県立図書館にある”武田神社の収蔵物”という本なら中身を見られると思います』
「ありがとうございます、行ってみます!」
「運気の書」を発見…
山梨県立図書館へ行き早速、運気の書の内容が記載されている”武田神社の収蔵物”を探します!
発見しました…!
せっかくなので、ネットで検索して同じ本を買いました…!
運気の書(部分)
信玄公は、敵の要塞の周囲にかかる運気(気象)の状況により、戦いに勝敗を占い軍を動かしたと言われている。この図解は信玄公の自筆といわれ、永禄3年(1560)2月5日の記載があるが、年代はやや新しい
図録武田神社の収藏品/上野晴朗 監修 より
メモ書き?
運気の書の一部はこんな感じです…
うーむ…これは…占い結果というよりも、僕が占いについて気づいたことをメモしておくノートによく似ています。非常に既視感があります…。
同書に記載されている運気の書は第三十五〜第四十三節までの一部分です。
このメモを見る限り、あの、ちょっと言いにくいのですが、もしかすると武田信玄は僕と同じように厨二病っぽいところがあったのかもしれません。
ところどころよくわからないところもありますが、他の部分も探してみようと思います。(残っているのかな?)
まだまだ研究は続く!!
にしけい