【青春は幻想?】エルレガーデンとKICK THE CAN CREWの話

エルレガーデンというバンドが最近復活してですね、新しくアルバムを出したらしいので聴いてみたんです。

僕が18~22歳というやや多感な時期にエルレガーデンにはまっていて、ライブも行ったりしていました。

エルレガーデンが好きだったのですが、新しいアルバムを聴いて驚いてしまったんですね。

「あれ?これエルレ?全然昔と違うじゃん」
「うーん、なんかこれじゃないよなぁ」

あれだけ何度もアルバムを聞き返していたのに、何曲か聴いただけでやめてしまいました。

これと同じ現象がKICK THE CAN CREW が復活して新しいアルバムを出した時も起きていまして。

こういった「なんか思っていた◯◯とは違う」「こんなの◯◯じゃない(嫌いだな)」みたいな現象ってみなさんも体験したことがあるんじゃないでしょうか。

これはカップルが別れる要因にもなったりするんですけど、「昔は優しかったのに」とか「こんな人だと思わなかった」といった理由で別れたりするわけです。恋愛だけに限らず、仕事や家族関係など、ありとあらゆる交流や結びつきにおいてこういったことが起きてきます。

僕にしけいに対してもそういう風に感じる人もいると思います。中には「占いの話をしないならもういい」「手相を見てもらえないなら占いは申し込まない」という人もいてですね、こういう「思っていた◯◯と違う」という現象は決して他人事ではないんですね。

 

人類皆編集者

 

なぜこの現象が起こるかというと「編集と限定」があるからなんですね。

要するに「部分」だけを見ていた、見せていた…ということなのです。

この部分というのは「自分にとって都合のいい部分」ということです。

そして、これは見る側・見せる側双方に原因があります。

特定の(自分にとって都合のいい)部分だけを見せるように切り取って編集して情報発信(行動)している人もいれば、逆に受け手が自分にとって都合のいい部分だけを見るように、勝手に脳内で編集している人もいるわけです。

Aという要素が際立つように編集して発信している人は、Aという要素を求める人たちが集まってきます。しかし、Aの要素がなくなってしまったとき、Aの要素が弱いと感じられてしまったとき、そういった人々は去っていきます。

「なんだ、Aじゃないならもう買わない」とか「こっちのほうがAだからもう要らないや」といった具合です。

例えばこの「A」に「安さ」というパーツを入れてみます。

「どこよりも安い!」「この地域で一番安い!」といった具合で「安さ」が際立つ編集して発信していたわけですから、「安さ」を求めている人たちが集まってきます。

しかし、「安さ」という要素がなくなってしまうと、そういった人たちは離れていきます。「なんだ全然安く無いじゃないか」「こっちのほうが安いからもう行かない」こうなるわけです。

つまり、「特定の部分」(キャラクター・性格・性質・メリット・特性)をあまりにも過剰に切り取って発信すると、一時的には良いのですが、その部分が薄まってしまうと人は離れていきます。人を集めるために特定の部分を切り取り編集したのに、それが逆効果になる場合もあるわけです。

見る側も同じように「この部分しかみたくない!」という状況で特定の部分を切り取る編集をするわけですから、こちらもこちらでエゴというか打算で動いていることになります。

 

恋と愛の峠

 

僕はこの「部分のみを見る」という状況を「愛がない」といつも思います。

例えば、自分以外の人々を「お金を払ってくれる人」「お金」としか見ていない場合、これは愛がありません。それ以外にも「自分に優しくしてくれる人」とか「自分にとってメリットがある人」としか見ていない場合も愛がありません。

反対に「綺麗な部分」「うまくいっている部分」「自慢できる部分」しか見せたくない…という編集作業も愛がありません。そういったことを仕事として理解してやっているのならしょうがないかもしれませんが、やっぱり「一時的」だし、愛がないので「いつ人が離れていくか分からない恐怖」みたいなものは強くなると思います。

「若さ」を売りにするということは、「若さ」を保とうとするためにエネルギーがかかりますし、「若さ」がなくなってしまったときにどうするのか…ということも考えておく必要があります。

個性とか才能とかメリットとかそういったものを切り取って押し出すという手法はいろんなところで行われていますし、行おうとしている人も多いかもしれませんが、自分が押し出すものが果たしてどんなものなのかをよく考えておいたほうがいいかもしれません。

反対に、冒頭のエルレガーデンやKICK THE CAN CREWのように「自分はこの人たちの◯◯の部分のみを求めていたんだな」と気づけることも大事です。ただ「なんかエルレ変わっちゃった〜ショック〜藤井風のほうがいいよね〜」で終わってしまったら、何の発見も成長もありません。僕の青春を支えてくれた彼らの音楽は、また違った人たちの「今」を支える音楽になっているはずです。

たぶん「愛」って「どうしようもない部分」も許せることだと思うんですね。自分にとってメリットがない、自分が見たい部分ではないところも許せる。「恋」は反対に「自分が見たい部分」だけを見たり、見せる行為なんじゃないかなと思うんですね。だから「恋愛」の「恋」と「愛」の間には真逆に転ずる大きな転換点があって、そのポイントを突破できないと関係が破綻してしまうわけですね。

しょうがないところを許してもらうには、まず自分がそれを許して、その振る舞いをする必要があると思うので、まずは自分に嘘をつかないというのは大事なのかもしれませんね。

 

僕のプロフィール画像もこの写真をずっと使っていますが

 

実際、この記事を書いているときはこんな感じです。

 

前髪が邪魔なので普段はけっこう縛ったり、ピンで止めて作業することが多いです。前髪を上げるのと下ろすのでは印象が違うとよく言われます。

こういった「イメージを壊す」「イメージを変える」ときに人々が離合集散を繰り返す実験をTwitterで結構繰り返して遊んでいるのですが、わかりやすいですよ。笑

あなたが見ている世界は、実は「あなたが見たい世界」かもしれません。

「自分にとって都合のいい部分を編集しちゃうこと」をずっと続けるのであれば、それが本当の個性というか体質みたいなものなんだと思うんですね。それもしょうがないところだったりするんですね。

でも、「しょうがないところ」を無理矢理受け止めようとするのも、それはそれで「優しい人」を演出して、自分で編集しようとしているわけですから、無理せず可能な範囲でやっていきましょう。

にしけい

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書いている

西田 圭一郎

1987年富山市生まれ。工学修士。 商社の開発営業職を辞めて、占いや相術を生業にしています。本と旅とポケモンと文章を書くことが好きです。黒も好きです。どの国に行ってもスチューデント扱いされます。詳しくはこちらから。

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