意図も意思もない目に見えていない世界に出逢うワクワク

よくわかったものには自然と軸が出来てくる。固定化されていく。一元的価値観で全て知覚されたものを評価判断していく。経験を積めば積むほど、学習すればするほどこの一元的価値観は強固になり、判断は早く正確になる。人工知能的。右上に収束していく。今年の5月からプログラミングを学び始めて、僕はこれに向かおうとしていた。本当はもっと多元的なのに、これを「再現」できると考えていた。

顕現相術。これは目に見える現象からその背景や目に見えないものを見ようとする。これは実は二つの方向性があって、左中央から出発した流れを左上に行き「よくわかるもの」とする流れと、目に見えていない世界に想いを馳せる「どうしようもない世界」に向かう左下へと向かう流れがある。どうしてもテキストや講座にする場合、左中央から左上の流れをとる必要がある。じゃないと「誰か」に説明することができないし、共有することが出来ない。これは「ぼんやり見えるもの」を「より明確にする」という作業で、やっているうちは非常に楽しい。しかし、ぼんやりとだけど既に現象化しているものを左上、上中央を経て、右上にもっていこうとする流れはやはり人工知能的な流れになる。大衆性。もっとも苦手とする世界に足を踏み入れようとしていた気もする。

「どうしようもない世界」というのは意思や言葉ではどうにもできないし、そこに評価や価値を見出せず、ただただ存在する。でもその存在を想像したり、その世界の片鱗を点で感じることができるだけで興奮する。何の役にも立たないし、意思もないし、方向性もない。だからこういった世界は実用性を軸に見ると「何が役に立つの?」というものになるので、人々の興味関心も得られないし、そこに価値を感じてお金を払おうとする人もいないと思う。だからどうしても左中央から左上の「ぼんやりわかるものをわかろうとする世界」に逃げてしまう。これは「効果的」だし「解決している気」になれるので、非常に共感が得られやすい。カタルシスがあるし、人々が爽快感・快楽を感じやすいフェーズになる。前戯→オーガズムのフェーズなので、人々はワクワクする。

一方「どうしようもない世界」へ向かおうとする方向性は、そもそも方向性がないので快感に向かうというよりも、一般的には「不快」へと向かうかもしれない。コロナの影響もあり人々の心が疲弊して余裕を失い、人々は「分化」や「快」を求める。安堵を求める。そのような状況の中で、逆方向へ向かおうとする人は相当な少数と言える。

 

転んで気づいた

 

どうしても仕事で右上の方向性に向き合う必要があった。「みんなができる」「誰でもできる」そういったものに向き合う必要があった。わかり切ったものを、さらに共有し、誰でもできるものにする。こういう作業を続けていた。中洲川端駅のモスバーガーで作業をしていた。福岡に来たのにモツ鍋も食べず、モスバーガーに3回行った。作業中、大きなゴキブリが現れた。飲食店でゴキブリが出るというのは印象が悪い。でもゴキブリが出たということは「何かおかしいことをしているのではないか?」というシグナルだとすぐに気づいた。その後、宿に向かおうと歩いていると何もないところで盛大に転んで擦り傷を負った。大きなリュックを担いだ34歳はダイナミックに転がり、ちょうど地下駐車場へと下りていく坂道だったこともあり、想像以上にもともといた場所から離れたところで立ち上がることになった。なるほど。これは違う。やっぱり左中央からスタートしてそこから左上に行き、右上に向かう流れは何か違う。そこからいろいろ自分の行動を省みた。

飛行機で海外に行く。現地に着いて街を歩き回るのも好きだけど、飛行機の着陸時がすごくワクワクする。建物や車がジオラマのように見えて、夜だと明かりがポツポツついている。アリたちが獲物を運ぶ様子を眺めているような気持ちになる。彼らは僕が見ていることなどつゆ知らず、自分たちがやるべきことをやっている。飛行機から眺める街は、そういう自分とは無関係な、自分には「どうすることもできない」世界の片鱗に触れることができる。一台の車を目で追ってみる。その車の中には仕事帰りで妻と子との夕食を楽しみに運転する男性が乗っているかもしれない。はたまた、これから仕事に向かう途中の車かもしれない。自分の知らない向こう側の世界がある。そういった世界を感じられる片鱗がある。出来事がある。自分がやりたかった顕現相術の本来の方向性はおそらく、こっちなのだと思う。依頼者から「わかるわかる」と納得されるようでは、それは「既に気づいている世界」にすぎない。本人が居合わせていない、想像できていない世界を見て、それを伝える。僕はそこに価値があると思う。しかし、これは決して安心を与えることでもないし、夢や希望や吉凶を与えるものでもない。だからすごく「占い」という言葉がもう自分の中で合わなくなってきた理由はこれだった。

 

占いに対する違和感

 

自分は「占い師」だと紹介されることにも違和感があったし、3〜4年前ぐらいから「手相の人」と紹介されることに違和感を感じたように、何をやっているのかなんとも説明がつかなくなってきたし、自分の方向性と「占い」という言葉が噛み合わなくなってきた。大きなくくりで言うと占いなのかもしれないけれど、一般的な「占い」という言葉との認識とはなんかズレるし、ずっと違和感を感じていた。だから対話できる時間がすごくありがたかった。

全員が全員ではないけれど、対話することで自分がやっていること、考えていることを伝えられる場ができると理解を得られることが多かった。「それはもう占いではないね」「結論、君は何をやっているかわからない(表現できない)ね」こういった言葉が最後に出てくる対話は、非常に僕は幸福感が得られた。誰かと差別化したいとか特別感を感じたいというかっこいいものではなくて、ゴミ捨ての分別に迷う引越ししたての住居者みたいな気持ちだった。分けなければいけない。選択しなければいけない。説明できなければいけない。何かに成っていなくては理解してもらえない。いままで「占い」という言葉に甘えて説明を端折ってきたツケがまわってきた気もした。「相術」という言葉に頼って、もっと対話や心のうちを吐露する機会を放棄してきた気がした。

自分でもどこに向かっているかわからない。けれど、ゴキブリと転倒という現象から、少なくともやっぱり右上ではないと言われた。僕の意思や言葉は僕の人生において何の役にも立たないと感じることすらある。何かになろうとしても、何にもならせようとしてくれない。なんなら人ですらないかもしれない。固定化しようと、大衆化しようとすると「そこじゃないでしょ」と事故やトラブルが起こる。そしてやっぱりワクワクするのは「未知の世界」であり、そういった世界は「意味も意思もない世界」で「お金にもならなくて、仕事にもならない世界」になる。とは言いながらも生きていくためにはお金が必要だし、この何とも言えないどうしようもない世界を共有することで、そこから何かを生み出すきっかけになるのであれば、表現する価値はあるのかもしれない。

どうしても講座やご相談などでは「理由」を聞かれる。「なぜですか」「どうしてそう判断されたのですか」そりゃそうです。知りたくて学ばれにこられているのですから、聞く権利はありますし、それに答える必要があります。でも、これがけっこうキツいんですね。理由や理論についての質問は、言語化・理論化する必要があって。その理論を知れば自分もできると思っている人が質問するわけです。でも、実際その答えに行き着く背景というか、言語化できないものがいっぱいあって。それっぽい答えを述べることはあっても自分の中でそれは「それっぽい言葉や理論」で片付けるしかなくなってしまう。

望月さんの本を読む限り「簡単そうに言っているけど、この人にしか見えていない、この人にしかできない術」が書いてあり、断片化されてしまった言葉を鵜呑みにマネをすると「不味いことになるな」という気がしてならないのです。大衆性や再現性が弱く、望月さんだからこそできることなのだと思いました。自分も占いを教える端くれとして「いくら言葉で伝えても、本人(自分)しかできないな」と思う場面がけっこうあります。「なんでそう判断したんですか?」と問われて、いちおう「○○だからです」と説明することはできるのですが、実は全くそれ自体が的外れというか、氷山の一角のみが言語化されているだけで、その言葉の背景にはその人しか分からない非言語化領域があると思うのです。これをすごく簡単な言葉で言い表すと「霊感」とか「霊性」と言っておきますが、望月さんの本を読み込めば読み込むほどそれを感じるのです。

気学実験私見録より引用

 

好きな本コーナー

 

僕の本棚には何度も思い出したように読み返す「好きな本」を並べておくコーナーがあります。ここにはいろんなジャンルの本が20冊ぐらいあります。本当に好きな本なので、どんな人が書いたのか調べたり、生きている方ならコンタクトを試みたりすることもありました。僕が好きな本を書いた著者の方々には傾向があって。調べれば調べるほど「何をやっている人かよくわからない人」ばかりなんですね。ネットで情報すら上がってこない。存在自体あやしいような、そんな人たちばかりなんです。「何をしているかわからない」「何者なのかわからない」「わかりやすい肩書きがあるわけではない」そういう人たちの本がなぜか自然と「好きな本コーナー」に集まっています。たぶん、紹介しても「え?誰?」となる人ばかりだと思います。でも、彼らの本を読むことは僕にとって大好きな時間のひとつなのです。

目に見えない世界。意味や意図のない世界。理論や言語化できない世界。その片鱗に触れ、そっと手放す。最終的にその応用例のひとつに「占い」があるのでしょうけれども、でも僕がワクワクする世界は「占い」ではないですし「占い師」になりたいわけでもありません。もっと外側にある、自由な世界なのです。

にしけい

 

 

 

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書いた

西田 圭一郎

1987年富山市生まれ。工学修士。
商社の開発営業職を辞めて、占いや相術を生業にしています。本と旅とポケモンと文章を書くことが好きです。黒も好きです。どの国に行ってもスチューデント扱いされます。

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