ジムが終わった帰り道。
道玄坂方面から渋谷駅方面へ向かうためマークシティを歩いていた。少しでも足腰を鍛えるためにエスカレーターではなく階段を使う。
渋谷駅方面からマークシティに入る、のぼりエスカレーターがある。僕は階段を下りる。
階段の幅は4〜5メートルぐらいあって、エスカレーターまでの距離は5〜6メートルぐらいあったかな。
密・密とかいいながらも、けっこうエスカレーターに人が乗ってて、電車通勤(移動)の人もまた増えてきたし昼過ぎだと混むんだな〜とぼんやり見ていたら
上りエスカレーターに乗るピシッとスーツを着たサラリーマン風の若い男性(35~40歳ぐらい)が、前に乗る女子高生のスカートの中を盗撮している現場を目撃してしまった。
音が鳴らないように、スピーカー部分を押さえるような独特の持ち方をして、手慣れた手つきであるようだった。
僕以外に目撃者はいないようだし、彼女の前(上)に乗っている彼氏らしき男子高校生も気づいていない。
何事もなかったかのように、エスカレーターに乗った人々の群れはマークシティ方向へと消えていった。僕はモヤモヤした。こういうときどうするべきなのだろうか。
Twitterなどではたびたびこのような「事件」があったときに、人々は「誰々が悪い」「○○が正しい」と「良し悪し」を主張します。
例えばこの一瞬の出来事を切り取ったときに、主な登場人物は
「盗撮したサラリーマン」
「盗撮された女子高生」
「女子高生の彼氏」
「盗撮を目撃していた僕」
になります。
「盗撮」という行為は法的にも犯罪に問われる。東京都の迷惑防止条例の場合、盗撮行為の法定刑は1年以下の懲役または100万円以下の罰金。 常習の場合には、2年以下の懲役または200万円以下の罰金。
そういう風に定められています。
盗撮の瞬間を目撃した僕が「モヤっとした」ということは、僕の中にもやはり「盗撮=悪」という考えがどこかにあったからだと思います。その次に「どうすべきかわからなかった」という点にもモヤモヤしました。
離れていたとは言え大きな声で「盗撮されてますよー!」と叫べば、気づかせることができたかもしれない。盗撮したサラリーマン風の男性の行動をやめさせることができたかもしれない。
しかし、気づかれなければ何事もなく終わってしまう、という事実もある。盗撮されている彼女は知らない方がいいのか?彼が自分の彼女が盗撮されている事実を認知したらどう思い、どう行動するだろうか。
このような「一瞬の場面を切り取ったもの」でも、様々な意見が湧いてきます。
「盗撮されるような短いスカートをはいているから悪いんだ」
「彼が彼女を守っていれば、こんなことは起こらなかった」
「昼すぎに学校をさぼって街に出ているほうが悪い」
「盗撮に気づいているのに何もしなかった目撃者が悪い」
「盗撮をするような子を育てた親が悪い」
「見回りを強化しなかった渋谷駅が悪い」
「盗撮しやすいような角度のエスカレーターを作った会社が悪い」
…
え!そうなの?と思うような思わぬ意見も出てきます。
このような「モヤッとする出来事」に対して、人は「断ずる」ことをしたがります。
なぜなら「ずっとモヤッとしたままでは苦しいし、それ以上考えたくないから特定の立場に立って考えることをやめたい」からです。
とにかく考えたくない、迷いたくない、悩みたくない、だから「決める」ことをする。良いことか悪いことかを「分ける」ことをします。そして、より簡単に分けやすくするために「ルール」や「知識」があります。
あえて分けやすくするために意図的に「すでにちょっと分けた情報」を発信する場合もあります。
意図的に情報を制限する場合もあります。
Twitterの場合は140字という少ない文字数だし、ニュースの見出しなどはもっと短いです。
そのため、表面的な部分(あえて情報を削ったもの)を提供、もしくは受け取り手がそれを採用して断じやすい環境になっていたりもします。
例えば先ほどの「○○が悪い」という一連の意見も
「盗撮されるような短いスカートをはいているから悪いんだ」
→彼に短いスカートをはくように言われた
→自分のものが汚れてしまい、しょうがなく友達に借りていた
→普段ははかないけれど、たまたまはいていた
「彼が彼女を守っていれば、こんなことは起こらなかった」
→彼は過去にエスカレーターから転落しケガをしたことがあり彼女が「彼を守るため」下に乗っていた
→普段は彼女の下に乗るけど、人混みに流されてこのときはこうなった
「昼すぎに学校をさぼって街に出ているほうが悪い」
→たまたま休校になったから早く帰宅していた
→さぼりではなく学校行事での移動だったかもしれない
「盗撮に気づいているのに何もしなかった目撃者が悪い」
→犯人に逆恨みで何をされるかわからない
→逆上した犯人がまわりの人を押しのけてケガさせるかもしれない
→もしかしたら見間違いだったかもしれない
「盗撮をするような子を育てた親が悪い」
→親子でもそれぞれに性格に違いがあるのでは
→もしかしたら親がいないかもしれない
→親もやっているかもしれない
「見回りを強化しなかった渋谷駅が悪い」
→人手が足りなかったのかもしれない
→バイトの警備員が風邪でたまたま休みだったのかもしれない
「盗撮しやすいような角度のエスカレーターを作った会社が悪い」
→盗撮されることなんて想定していない
→設置できる角度がそれしかなかったかもしれない
…
…
といった具合に「一瞬の出来事」でも複数の要因が絡まって「ひとつの現象」を引き起こしている可能性だってあります。
この記事でいいたいことは、盗撮行為自体を肯定しているわけでもなく、目撃したのに何もしなかった自分を許して欲しいわけでもありません。
生きていると「すごくモヤモヤ」することに出会すことが多々あります。
「誰かが悪い」と断じてしまうことは圧倒的に楽ですし、そうしながら生きている人が多いと思いますし、僕もそうだと思います。
でも、もう一歩踏み込んで情報を集めたり、もう少し想像力を働かせることができれば、また違ったものの見方ができるかもしれません。
もしかしたら、よりみんなが幸せになれる考えが生まれてくるかもしれません。
何度もいいますが「何かが悪い」とか「何は正しい」と「分けること」は、それ以上考える必要がないので「楽になる」という機能はあります。しかし、一方で「分けたこと」によって失ってしまう可能性もあります。もしくは誰かを傷つける結果になる場合もあります。
「分けること」は決して悪いことではないですし、分けないとやっていけないことがたくさんあります。
でも、だからこそ、ちょっとでも「違う立場や見方を想像する」ことができれば、人々は互いに許しあったり、認め合ったりできるのではないでしょうか。
自分で考えることを放棄して「誰かのものさし」に従うことは確かに楽です。でも、本当にそれでいいのでしょうか。今後いろいろな問題が出てきたときに「納得」のいかない出来事もたくさんあると思います。死ぬまで答えが出ないテーマもあるでしょう。
自分で考えたり、吟味する癖をつけないと振り回され続けて消耗していくだけになります。
なぜ炎上するか
僕も過去にモンゴルで経験しましたが、ネットの炎上というのは「モヤモヤしたくない人」たちが火に油を注いでいます。
特定のテーマについてモヤモヤしないで済んでいたのに、理解できないモヤモヤする出来事が発生したとき、混沌をつきつけられたとき「善悪を決めたい人たち」が炎に油を注ぎます。
「分けられて落ち着いていた状態」のものが、また「混ぜられた状態」になる。すると落ち着きたい人たちは分けようとするわけです。
混ぜると反応熱が出るんだよね。
分かれていたものが混ざる。すると熱が出る。これが炎上の仕組み。maze-maze。— にしけい/Nishikei (@nishikei_) November 3, 2020
熱が出るとエネルギーを使います。エネルギーがありあまっているエネルギッシュな人たちにとっては炎に油をそそぐことは「メリット」かもしれません。あえて火種を提供してお金を稼いでいる人たちもいます。
「分けたい」という気持ちが強いと、エネルギッシュなのですが、精神的に不安定になりやすくもなります。「よくわからないこと」や「モヤモヤすること」が起こるたびに、振り回され消耗するからです。
最初の話から脱線してしまいましたが、盗撮の現場を目撃してモヤモヤしたのは事実です。
そしてこのモヤモヤのもとが何なのかを逃げずに向き合う。自分の中で何度も反芻する。こういった作業が「新たなアイディア」や「優しさ」につながるのではないかと考えています。めんどくさいし、気持ち悪いけどね。
最後、職業病みたいな感想になってしまい恐縮なのですが、この「ひとつのシンボル(現象)にも複数の要素が絡んでいる」というのは非常に占いにも役に立つと思います。断易とか本当にそんな感じだもんな。
あなたはどう思います?
にしけい