陶芸教室に行ってきました

わざわざ東京でやらなくてもできたはずなのですが、なぜか引っ越して早々陶芸教室に申し込みました。

ちょうど家からまずまず近い距離のところにあったのと、手で粘土を組んで整形して削って色付けして焼いて…まで体験できるという点に魅力を感じて申し込んでみました。

 

陶芸初心者にしけい

コップ、グラス、お皿などの中からどれを作るのか選べるのですが、とにかく初心者すぎるので「初心者でも簡単に作れるものは何ですか?」と先生に尋ねると「初心者だったらどれも同じだと思います」とのこと。

そうだよな。本当に初心者すぎる質問をしてしまったなと、ちょっと恥ずかしくなる。「それじゃあ」と、引越ししたてで家にコーヒーカップもない状態だったので、コーヒーカップを作ることに。

「持ち手つけるのとか難しいですかね?」と尋ねると先生は苦笑い。オッケーとにかくやってみるしかないってことですね。よろしくお願いします。

 

1 造形

粘土を丸めて土台を作り、紐を作って少しずつ積み上げていく。普段手ばかり見ている癖に、手がうまく動かない。頭ではわかっているのに、手が思ったように動かないので、粘土を紐状にするにも太さがなかなか安定しない。

先生がする所作に「それは何でやるんですか?」と質問しまくっていると「陶芸の世界で”なんで?”って聞いちゃだめなんですよ」と。

「こうやるんですよ」としか教えようがないんですよね。一応の理由は説明することはできるんですが、やっぱり最後は「こうやるんですよ」としか言いようがないんです。

この言葉で納得。占いもそうだもんな。言語化を諦めちゃだめなんだけど、言葉では説明できない領域だもんな。ヴァイブスというか。フィーリングというか。テキトーというか、適当というか。それ以外にも先生はいろいろ大事なことを話してくれたと思うのですが、忘れてしまいました。

粘土は粘土自体が「方向性」をもっているように感じました。「俺はこうしたい」「私はあっちに行きたい」という声を聞き入れすぎても形にならないし、彼らの声を無視して強引にコントロールしようとすると壊れてしまう。

「コントロールする」と「聞き入れる」のせめぎあい。さ○る予備校の塾講師時代を思い出しました。元気な小学生たちの個性を生かしながらも、律していかなくてはならない。少しずつ型にはめていくような、時間をかけた洗脳…。といっても、面接受かって研修1日目で1回目の盲腸になって入院して速攻辞めたんですけどね、佐鳴予備校。

厚みを均一にしながら積み上げていき、つなげて引き上げて面を作っていく。最近はダイソーなんかでも「あれ?こんなに買ったっけ?」と思ったら、100円に紛れて500円の商品が混ざっていたりしますが、僕も同じぐらい「均一」が苦手なんですよね。

ダイソーでさえ均一を保てなくなっているんですから、ちょっとした厚みのムラは許して欲しいのですが、陶芸はそうも言っていられない世界のようで。厚みのムラが出ると、それだけ後の工程に響いてくるんですね。

出来上がってくるカップは今の僕の作業次第で大きく変わってくる。つまり、この最初の段階で全部決まってしまうのです。当たり前のことなのですが、ここまで「未来」と「今」が直結していると実感させられる作業はとても新鮮でした。

普段占いではもうちょっといろんなファクターが絡んできて「今」と「未来」が作られるのですが、ここまで単一の操作で未来が決まってしまうストレートさになんというか時間は「今の連続」だということを実感せざるを得ませんでした。

でも、確かに相術もとてもシンプル。意思が形になる。陶芸と同じ。陶芸は相術を体で体験しているだけなのだなと偏った納得をしつつ、粘土と格闘するのでした。

 

2 削り

形作ったカップを今度は削っていきます。これがまた難しいんですよね。先生が「これぐらい」と言って削るときの刃物の角度とか教えてくれて、見様見真似でやってみるのですが、やっぱりなんか違う。このあたりは有機化学の実験とめちゃくちゃよく似ていました。

先輩や論文と同じようにやっている「つもり」なのに、全く結果が違う。何が違うのか?頭でわかっている限り同じように見様見真似でやっているのに、同じようにならない。「何がわからないのかわからない」状況に陥って、自分はもうダメなんじゃないかと思いながらも続けていくと自然とできるようになる。あのパターンだな。これ。

じゃあもうとにかく削りまくって体で覚えるしかない…と一生懸命削っていたら、削りすぎたようで一部分がかなり薄くなってしまいました。先生に修正してもらいつつも、焼いたら穴が空いてしまうのではないかと心配になります。初めてのことすぎて「適度」の基準ができていないんですね。原点0すらわからない。

試行錯誤しながらも、削った後はコップの持ち手をつけて、2回目はここまで。

 

3 釉薬につける

素焼き。素焼きすると水が抜けて1割ほど縮みました。あれだけ柔かくて可愛かったのに、素焼きするとドライな堅いヤツになって帰ってきたのです。

うちの娘、息子たちも高校へ行くとこんな感じでドライになってしまうのでしょうか。久しぶりに家に帰るとサバイバルナイフとかで威嚇してくるようになるのでしょうか。もう既に尾木ママに相談したいぐらいですが、尾木ママの前髪ぐらい薄く削ってしまったコップ側面は案外無事で、少しほっとしました。

次に釉薬につける作業です。これは一発勝負です。ここまでうまくやってこれたとしても、ここで全て決まってしまう。

釉薬をダラダラと混ぜていたら「もっと真剣に混ぜてください」と注意されました。「色はここで決まりますからね」と念を押され真剣に混ぜます。そう。全ての工程の積み重ねが形になる。気は抜けません。

気合を入れて、釉薬にとっぷりつけます。

 

今回は織部焼の酸化焼成で緑色っぽい仕上がりになるようです。これはとても楽しみです。

一通り作り終えて、後日取りにいきます。とても楽しみです。

 

4 仕上げ

できていました!最後に高台を少し削って滑らかにして仕上げです!

初めて自分の手で作ったカップで飲むコーヒーは最高でした!意外と飲み口が分厚くなってしまったり、やっぱり釉薬をつける時間が長すぎたりと、まだまだ納得のいく仕上がりではないものの、これはこれでいいもんだなぁと思いました。

 

自分ができることをやっていく

先生が言うには、「陶芸」と一言で言っても「土」にこだわる人は山に籠るし、「造形」にこだわる人もいるし、「焼き」にこだわる人は炭からこだわるし…「全部」を完璧にするには生きている間には到底不可能なのだとか。

「となると、どこか一部ってことですか?」

「そうです、自分が興味をもったり得意なところを突き詰めて掘り下げていかないと、到底個性というものを表現できません」

この話もよーくわかります。全部やろうとすると中途半端になるんですよね。だから、とりあえず1個掘りやすいところから攻めて極めていく。占いに限らずいろんな分野でも同じことが言えるのではないでしょうか。

突き詰めていくと「自分ができること」をやっていくだけ。そして「自分がやりたくないこと」は自然と体調を崩したりしてできなくなるから、やっぱり「自分ができること」に日々の仕事や行動は集約されていくんですね。

つまり、これを読んでくださっているあなたも、おそらくちゃんと「自分ができること」をできる範囲でやっているはずなのです。毎日コツコツと。もちろん誰かと比べると自分は「全然できていない」と自分を責めたり悔やんだりすることもあるかもしれません。

しかし、陶芸のように「全部極める」というのは無理です。これに気づいてスルスルスルっとできないことを手放していくというのも時には大事なのではないかと思います。

というわけで、陶芸は僕には向いていなさそうなので、スルスルスルっとフェードアウトしていこうと思っていたのですが、来客用のコップがまだまだ足りないので、もう1個ぐらいカップを作りに行こうと思います。

にしけい

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書いている

西田 圭一郎 (にしけい)

1987年富山市生まれ。化学系工学修士。商社の開発営業職を辞めて、占いとWeb開発などを生業にしています。趣味は読書と旅とポケモン。文章を書くことが好きです。三児の父。詳しくはこちらから。

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