昨日の記事の続きになりますが…
「ウツ」と「空」と神社の話(七赤金星・兌・三次元空間の定常状態)
https://nishikei.jp/kigaku/51403/
昨日の記事を書いてみて、僕自身「中身があること」「中身が詰まっていること」にしか価値がないと考えていたのではないかということに気づきました。「意義」や「意味」のようなものがないと、よくないことなのではないかとジャッジしていた気がします。
「詰まる」という状態は、流通性や流動性が悪くなります。排水溝にヘドロが詰まったり、血管に血栓が詰まったりすると、特定の部分に負担(力)が集中します。詰まるというのは「凝集」の作用が働きます。むしろ凝集によって「詰まる」ということが起きてきます。水を出すホースを外からギュッと押すと、そこで水が詰まります。水の出が悪くなります。
「詰めようとする」状態になっている人って、現状に不快感を示す人が多いんですよね。社会的・経済的にうまくいっているかどうかでいうと、うまくいっていない場合が多いですし、うまくいっていたとしてもなんとなく閉塞感や不足感を感じている人が多いんですね。
「つまらない」という言葉は、現代では「おもしろくない」「興味をひかない」「意味がない」「価値がない」といった意味で使われがちですが、他にも「決着がつかない」「筋が通らない」「なっとくできない」といった意味があるようです。そうなると、やはり「つまる」という言葉は「収束」や「凝集」という作用で説明がつきます。
①凝集→何かを一点に集める
注目を集める・興味を集める・attract
▶︎「つまらない」は惹かれないの意味に
②凝集→収束させる
片付ける・決着をつける・納得する
▶︎「つまらない」は落とし所がないという意味に
学生時代に修士論文を書いていた際に『文脈の前後に筋が通っていれば、無理に「つまり」や「要するに」といった接続詞は不要で、極力減らした方がスマートな文章になる』と教官から教えてもらったことがあります。確かにそうだなと思いつつ、今それができているかというと怪しいのですが…
この「つまり」という接続詞も、「行き着く最後の所」「要するに」「結局」といった収束のニュアンス(finally, at last)として使われます。
秩序への執着が生む混沌の逆説
「詰めようとする人はなんとなくうまくいっていない人が多い」と書きましたが、「詰めようとする人」は「一義性」「無駄をなくそうとする」「ジャッジする」「使命感に駆られやすい」という傾向があり、まさに凝集や収束の作用になります。「〜しなければならない」「〜であるべきである」「〜は絶対に正しい(正しくない)」といった言葉が頭の中に蔓延している人は詰めようとする傾向があり、自己や他者を許容する余地が少なかったりします。凝集や収束は範囲の限定につながり、「不正解」「不快」である確率が高くなっていきます。
ハイデガーが提唱する存在論の中に出てくる「存在忘却」と似た状態と言えるかもしれません。自分の固有の存在の仕方を見失い、他者の期待や価値観に合わせた存在を追求する傾向にある状態が存在忘却で、目的や効率にとらわれすぎて、存在そのものの豊かさを見失っている状態です。
「詰めようとする」という行為は「人為的に秩序化しようとする試み」なのですが、特定の範囲に限定され閉鎖された状態に向かいます。熱力学第二法則では閉ざされた場(孤立系)の内部ではエントロピー(無秩序さ)が増大していくという法則があります。秩序を形成するために閉じて孤立系を作りだしたのに、それがかえって大きな無秩序につながるのです。
「自分はしっかりしている!」「自分は能力がある!」「自分は無駄なことはしない!」と分断と孤立が進めば進むほど、エントロピーが精神的に不安定になっていく…というわけです。流体力学においても適度な乱れ(余地)があったほうが、全体的には効率的な流れができることが分かっているのですが、まさにこれと同じです。
意味のないこと、無駄なことを完全に遮断しようとすればするほど、流れが悪くなっていくんですね。もし、あなたのまわりに「メリットがあるかどうか」という観点のみで人間関係を取捨選択している人がいたら、孤立系に進んでいると言ってもいいかもしれません。僕が見ている限りですが、だいたいこういう状態のときってうまくいく方向に進むことってないんですね。占いをしていると「◯◯うまくいかせるにはどうしたらいいですか?」という質問をよくいただきますが、まず「うまくいかせようとすること」をやめることが大事なのかもしれません。
中身がないことにも価値がある
雑談やたわいもない話には「中身」がありません。人によっては「中身のない話は無駄だ」と嫌う人もいるかもしれません。しかし、考えようによっては中身のない会話は「誰かと作る神社空間」と言えるかもしれませんし、神社に参拝するよりも手軽で効果的な「空間作り」になるかもしれません。
ボランティアとかタダ働きとか報酬や成果を気にせずやることも、ある意味「中身がない行動」と言えるかもしれません。これらは「意味がない」ことですし、人によっては「つまらない」時間になると思います。でも、そういった「中身が詰まっていない時間」を作ることも流れをよくするひとつになるのかもしれません。そういった意味では仕事以外の時間や趣味や友人と過ごす空っぽな時間というのも「心の神社作り」には一役買うのかもしれません。
どうしても、何か意味や意義を持たせようとしたり、成果や結果を求めたくなりますし、それが求められる場面が多いわけですが、「詰めようとする」ことは円滑さや快楽とは逆に向かう可能性が高いんですね。頭も心も忙しいときほど、空っぽになることをやってみてもいいのかもしれません。そこに何か新しい可能性(余地)が生まれてくるかもしれません。
にしけい