梅花心易の「用」はカクテルパーティ効果に似ていて、「何に反応するか」「何に意識が向くか」を表現しているのではないかと考えています。対象のどの要素(部分)を切り取って固定するか。具象と抽象の融合地点みたいなものを推し量る作業だなとつくづく感じます。デジタルとアナログのちょうどいいところを掴むようなイメージでしょうか。なんとなく感覚で「ここ」と指差した部屋の中心点と、メジャーで部屋の大きさを測り計算によって出した部屋の中心点をすり合わせるような作業です。
何に意識が向いているか…どこに反応するか…というのは何かしら固定されたイメージがあって初めて発生します。変爻が重要なのではなく、変爻がついていない八卦が先に存在して、初めて用(客体)が生まれるようなイメージでしょうか。実際は時差はないのでしょうけれども。
フッサールの意識の志向性の言葉を借りるとしたら、「体」が「ノエシス(意識作用)」で、「用」が「ノエマ(意識される対象)」に対応すると思いますが、これらは不可分な関係性と言えます。つまり、八卦同士を独立した要素と見るのではなく、特定の対象と相対したときに自分自身や相手のどのような要素を切り取るかを抽象概念で表現していると言えます。
例えば、トランプ大統領を見る時に「自分自身の善良性」を感じる人もいれば、「自分自身のリーダーシップのなさ」を感じる人もいるでしょう。トランプ大統領に「傲慢さ」を感じる人もいれば「力強さ」を感じる人もいるでしょう。今出てきた、これらの言葉はトランプ大統領と相対して初めて出現する言葉(イメージ)です。自分と他者が不可分な関係にあり、そこから発生する要素なんですね。
トランプ大統領を見て、「社会的地位があって羨ましいな」と感じるのであれば、自分自身を「社会的地位」というもので見ている可能性がありますし、自分自身をトランプ大統領と比べて「痩せているな」と感じるのであれば、他者を見る際に「体型」という観点を切り取りやすい可能性が高いかもしれません。
対象について特定の要素を切り取るしかできないのですが、この切り取り方次第で「相性」のようなものが表れます。見てほしい部分と見てもらえる部分が合致すれば、いくらかは相性が良いと判断できますが、見てほしくない部分を見られてしまうと相性が良くないと判断できます。あくまで相性というものを考察する上でのひとつの判断軸ですが、梅花心易はこれをシンプルな抽象概念で表現していると僕は考えています。
これによって本卦と之卦の移行も単純な時間軸ではなく、意味生成の連続的な流れの中での異なる濃度や強度という説明がつくようになります。
「今日は新しいワンピース買ったの、みてみて」と彼女に言われたのに、空を眺めてボーッとしている彼氏がいたとしたら、「彼女の満足」には一生到達しないんですね。「至らない」わけです。之卦にならないんですね。このブログ記事もおそらく「見てほしい部分」と「見られる部分」がチグハグになっていそうなので、とりあえず締めようかなと考えています。
明日の梅花心易の講座は3時間ではなく1時間なのですが、テキストを作った段階で既に「時間足りないだろうな」という量になってしまったので、授業に載せきれないものをこうしてブログに記しておきます。少しずつ全容が分かるようになってくる瞬間が楽しくて、そのためにはやっぱり離れてみることが大事だなと改めて感じました。3年前にやった梅花心易の講座と全然違うけれど、見るポイントが全然違ってるからしょうがないです。見るから視野が狭まるし、見ないからこそ視野が広がるんですね。
にしけい