最近『理由付け』『合理性』『最短距離をとるルート』といったものがいかに、そのものやヒトをつまらなくしているか、陳腐なものにしているかをヒシヒシと感じています。
『過程』『移動中』はどうでもいいわけだから、それって誰とディズニーランドに行っても大して変わらないってことでしょ?— にしけい/Nishikei (@nishikei_) 2018年5月15日
「動機を明確にする」とか「目的に理由をつける」というのは「合理的・効率的」に物事を進める反面、途端に道中をつまらなくしちゃうんですよね。
評価軸や行動根源が他者にいっちゃうと、本当にしんどいんですよね。
僕も2018年の始め頃「合理性信者」になりすぎて病んでいた時期がありました。
白い天井を黒カビで染めた頃の記事:
あの、目的・益を追求することに疲れました。これは無意味な記事です。
「他者のため」とか「道徳的に正しい」とかって確かに聞こえはいいし、物事をスムーズにするためにはいいんですけど、追求しすぎると何が楽しいのか分からなくなっちゃうんですよね。
物質主義世界に没頭することも確かに楽しいのですが「ゴール」や「答え」に執着するがあまり
それに到達できていない自分を強く否定し始めると途端に「今」が辛いものになります。
これだけたくさんの情報やモノが行き交う世の中ですから、ちょっと油断すると物質主義・合理主義・競争主義の信者になってしまいます。
そして「何かに達していない自分」を「中途半端なもの」として全否定してしまうのです。
道中を楽しめる人=道楽人
この「何かに到達していない自分」を否定しないためには、途中の道のりを楽しむ必要があります。
開発とか新規事業の立ち上げもそうだけど
『道中を楽しむこと』を吝(ケチ)るヒトには難しいんだろうなあ。お金や時間のあるなし関係ない。
ケチる、合理性を求めるヒトに希望や面白みを感じない。楽しそうにやってるところに集まる。— にしけい/Nishikei (@nishikei_) 2018年5月15日
例えば、遠足とか行くじゃないですか
移動時間往復3時間
現地滞在時間3時間だったとすると、移動時間を楽しめた方が100%楽しくなるわけですよ。
現地(目的地)にたどり着くことだけが楽しみになっちゃうとかなり損する計算になりません?
だからショートカットを求めた途端つまらなくなるんです。— にしけい/Nishikei (@nishikei_) 2018年5月15日
遠方へ行けば行くほど移動時間や待ち時間が長くなります。下手すると移動時間の方が長い移動もあります。
この道中の景色や出来事を楽しむことができれば「中途半端な自分」と思い込むヒマもなく、気づいたら目的地へ到着していたりします。
中1の遠足で帰りのバスで当時好きだった女の子が隣の座席になり、彼女は疲れたのか眠りにつき頭を僕の肩にもたれかけてきたわけですよ。
当時の僕はツルツルの童貞でしたから、寝たフリしながら、永遠にバスが到着しなきゃいいのになんて願っていました…道中楽しめたら目的地とか関係ないんですよね。— にしけい/Nishikei (@nishikei_) 2018年5月15日
結局、遠足はどこに行ったのかすら覚えていません。そんなもんなんですよね。 https://t.co/U33ugEZ7CF
— にしけい/Nishikei (@nishikei_) 2018年5月15日
目的地へ向かう途中が楽しすぎたり、印象に残りすぎたりすると、目的地なんてどうだってよくなります。
それを「自分はブレていると思われているのではないか」「あいつは一貫性がない」だなんて思わなくていいです。
そんな感情は楽しそうにしている人に対する「嫉妬100%」ですから。
仲の良い人となら別にディズニーランドに到着しなくても、その道中が楽しいですし、アトラクションの行列に並ぶのも何のそのです。
問題は「どこへいくか?」よりも「どうやって行くか?」「誰と行くか?」の方が大事です。
で、どうせ行くなら「楽しい人」と行きたいし「楽しく」行きたいじゃないですか。
つまり「道中を楽しめる人」=「道楽人」こそ最強なのです。
道楽人=遊行者(ゆぎょうしゃ)
広辞苑によると「道楽」とは「道を解して自ら楽しむ」ことらしいです。
解す(かいす・げす)を辞書で紐解いてみますと
1 納得する。理解する。
2 毒物の効力を失わせる。
3 ばらばらにする。ときほぐす。
とあります。
解す(ほぐす)と読んだ場合
1 結んだり縫ったりしてあるもの、また、もつれたものを、といて別々にする。ほどく。
2 こりかたまっているものをやわらかくする。
3 食べ物のかたまっているものを細かに分けたり、かきまぜたりする。
つまり「道楽」というものは、目的へ向かうプロセスにおける「困難」や「問題」をグニャグニャにバラバラに分解して楽しむことを指すのです。
「道楽息子!」なんて否定的に使われることが多いですが「柔軟な思考で楽しめる最高の息子!」という褒め言葉だったのですね!
過去に「人たらしの極意」を書いた本について記事を書いておりますが
あとで読み直して欲しい記事:
【価値ある絶版本】人生の攻略本「人蕩術奥義」が手に入ったからちょっと中身を紹介するよ
この「人蕩術奥義」に出てくる「遊行者(ゆぎょうしゃ)」も「道楽者」と同じような意味になります。
「最高の魅力ある人」とは、この「空」を体得しえた人ではあるまいか?
(中略)
自由自在の境地に至った人。あたかも自然の一部と化してしまったような人。
気負いもなく、淡々と自らの人生を楽しみ、人々を明るくし、
人生をあたかも一場の芝居のように、またゲームのように遊びながら生きている人。
このような「遊行者(ゆぎょうしゃ)」に、私は心からあこがれ、魅きつけられずにはいられないのです。
「目的」を明確に示し、生きる理由を見出そうとすると非常に合理的です。
しかし、この合理性や論理性を追求しすぎて「遊び」「余裕」を失うと、途端に人としての魅力やおもしろさがなくなっていきます。
さまよっていてもいいのです。
答えなんて出なくたっていいのです。
目的地に到達しなくたっていいのです。
どこにでも太極(中心)は存在しますし、太極はどこにもありません。
あなたが中心であり、あなたが先端でもあります。
基準なんか無いこの世界において「真のゴール」なんておそらく存在しません。
問題は「どうやってさまようか?」なのです。
地縛霊のように苦しそうに、他人を恨めしそうにさまよい続けるのか…?
それとも遊行者として、道楽者として一瞬一瞬を楽しみながら生きるのか…?
「夢」とか「目標」とか「生きる意味」とか、そんな効率よく生きるための言葉を1回捨ててみてはいかがでしょうか。
もっといっぱい「無駄なこと」をしましょうよ。
効率的に無駄なことをやれる人が今後強いだろうなぁ
— にしけい/Nishikei (@nishikei_) 2018年4月16日
にしけい