家族って何なのだろうと考えたときに「家族という病」という本を読んでみました。
この本も含めて、結論から言うと
「家族」を「利用する」人たちって結構多いんじゃないでしょうか。
「利用する」というと「人をモノ扱いするな」とか言われそうですけど
厳密に言えば「家族そのもの」ではなく「家族という概念」だから、この言葉で適当なんじゃないでしょうか。
そして、この「家族という概念」を利用するもしないも自由だし、それについて良いとか悪いはありません。
家庭コンプレックスに浸る人たち
家庭にコンプレックスって大なり小なりある人がほとんどですけど
そもそもそのコンプレックスの大元は「勝手に作り出された標準的家庭との比較」が原因になっているのではないでしょうか。
「父はサラリーマンでマイホームで母はパートに出かけて、夜は家族団欒で晩御飯を食べて…」みたいな
メディアや周囲の人たち、もしくは自分が勝手に形成した「家庭のマジョリティ」「普通の家庭」
これと自分の境遇を比較することでコンプレックスが生まれます。
結婚して自分で家庭をもってみてよく感じることなんですが
そもそも全ての家庭が普通でありながら、全ての家庭は異常なのです。
結婚・家族の形骸化なんて言いますが、それも「勝手に作られた結婚像・家庭像」なわけで
実際は「生まれついた世界」が当たり前であり、事実であり、それ以上でもそれ以下でもないのです。
それなのに、一部の人々は家庭にコンプレックスを抱き
それを理由に自分の行動や思考を制限します。
自分の家庭は●●だから
母親が●●だから
親が「●●だ」って言うから
うちはずっと●●だから
子どもが●●だから
本当は「できること」かもしれないのに「こういう家庭だから」と理由をつけて、自分の可能性を制限している人がけっこういます。
これが「家庭という概念」の利用例のひとつです。
「生まれた場所がそうだった」という理由(行動しない言い訳)としての利用です。
「家庭の事情」って、誰にも否定できない、しにくいから「言い訳の口実」としては、非常にインスタントでコンビニエンスなんですよね。
手っ取り早く「行動できない」理由が作れる。湧き水が出てるから、それを資源として使おうみたいな。非常に楽なんですよね。
何度も言いますが「これを悪い」とは一言も言っていません。せっかくの資源を使わないのはもったいない話です。
実際、僕も「家庭がこうだから」と自分の可能性を否定していた時期がありました。
今はそれを「甘えていた」と思ってしまいますが、実際「家族という概念」があって、それを利用することで精神を落ち着かせることができていたと思います。だから、活用できるなら活用してもいいと思います。
しかし、僕は高校時代付き合っていた彼女の言葉を聞いて、自分のしょぼさを思い知ります。
「おばあちゃんが倒れたことがきっかけで、今看護の学校に通ってるんだよ」
なんかこのときシンプルに彼女がかっこいいと思えたんですよね。
同じ「家族という概念」を「理由」として利用するにしても
「自分が前へ進める原動力」として使った方がいいんじゃないでしょうか。
「お父さんが占い師で手ばっかり見てくるから、私はそれを否定するために科学者になる!」
といって、娘が何か行動する原動力を得るために父である僕を否定してくれるなら大歓迎です。
でも、それに捉われすぎてもかわいそうだなーって気もしますから「好きなようにやって」って言いますけど。
「家族」って結局、概念だから
「家族だから」という理由だけで、ここまで援助してもらって育ててもらった身としては、非常にありがたい話です。
そう思うと、「家族という概念」は非常に強力な行動原理です。
実際、自分も自分の子どもたちを「家族だから」という理由で養っているわけです。
僕の遺伝子をもった小さな生命体を保護するというのは「種の保存」という本能としては自然なことなのかもしれません。
しかし「家族という概念」に捉われて行動できずにいたり、我慢し続けるというのは「種の保存」の本末転倒な気がします。
家族関係で苦しんでいる人は、まず
「家族だから」という言葉ではなく「家族という概念があるから」という言葉に置き換えてみてはいかがでしょうか。
そしてあなたがもつ「家族という概念」はどのようなものなのか考えてみてください。
それは本当にあなたが作ったものなのか、本当にそうなのかを疑ってみてください。
少しでも生きやすくなりますように。
にしけい