【雑感メモ】遠くの誰かと・エンターテイメント・夢と希望の違い

雑感メモ記事です。

 

せっかちさん

 

3年前ぐらいから感じていることなのですが、自分が美しい、最高だ、これはすごいことだと感動する発見はほとんどの人に共感されない・反応されないものになってきているんですね。反対に自分が大しておもしろくないな、どうでもいいな、つまらないなというもののほうが大衆から反応が得られます。たぶん、お金や注目を集めるために、描きたくもない絵を描いたり、作りたくもない作品を作っている人たちって一定数いるのだと思います。「本当に自分が表現したいものを表現しても誰にも理解されない」と孤独感を感じる人もいるでしょう。しかし、それは「今、評価されたい」「今、仲間が欲しい」という「今」に限定しているから苦しいんですね。

 

遠くの誰かと

 

僕は無名で素朴だけれど、自分の信念を貫き通した人の本を読むと共感します。時代も場所も違うけれど、本を通してその人物とひとつになれたような、喜びに満ち溢れることもあります。「今を生きる人」とか「近くにいる人」に理解してもらおうと思うと、範囲が限定されるのできつくなります。僕も一時期きつくなった時期がありました。でも途中から「未来に生きる人と対話しよう」と思えるようになってから、楽になりました。未来を生きる人たち、遠くにいる誰かになら届いて1つになれるかもしれない。取り込まれることは1つになれることなんです。僕が過去を生き、無名で死んでいった人たちが残した書物から感銘を受け、そこから新しいものを作り出しているように、自分がアウトプットしたものを時空間的に遠い人に理解してもらえるかもしれないと考えると、救われるものがあるのです。

 

ひとつになるまで時差がある

 

今を生きる人にも理解できるまで「時差」があります。すぐに理解できなくても、三年後、十年後という風に後になって理解され、取り込まれる場合もあります。時空間を超えて対話したり、ケンカしたり、叱られたり、共感したり、そういうものがあるので、絶えずアウトプットしていくしかないのです。

「今・ここ・近くにいる人」にこだわる、つまり目先の利益にこだわると、純度が下がり結果的により多くの人たちに伝わらないものになります。その点、インターネットという場で発信できるのは、「遠い人」にも伝えらえる可能性が生まれるので、本当にいい時代に生まれることが出来ました。手軽に文字を書いたり、本に残すこともできるので「未来の人」にも伝えられます。本当に良い時代です。ありがてぇ。

 

エンターテイメント

 

わざわざエンターテイメントを目指さなくても、すごすぎるものは自然と人の心を動かすエンターテイメントになると思います。例えば、屋久島の屋久杉は「人を驚かせて、感動させてやろう」なんてひとつも考えていませんが、見た人々は驚き、感動します。エンターテイメントになろうとする意図は必要なくて、ただそのまま突き抜けるだけなんですね。意図が入ると逆に陳腐でわざとらしいものになってしまうので、意図せずやったほうがエンターテイメントになりうると思います。

 

なんでも占えるだろう

 

ありとあらゆるものが占いの材料になるので、家族や親しい人たちは「これで占いできる?」と無茶振りをするようになってきましたし、占い師でもない妻でも「これをこうやったら占えるんじゃない?」といったことを言い出すようになりました。スーパーで食料を買ってくると、娘や息子も「パパ、それで占いするの?」というようになりましたし、子供達の発想から着想を得ることもあります。自分の固定観念を壊し続けて行動していった結果、まわりの人たちも「なんでも占いの材料にできるだろう」という考えになってきたんですね。たぶん、こうやって常識や固定観念って変わっていくのだと思います。まずは、自分の固定観念を壊すこと。ゼロだと思われていた可能性を行動によって0.00001%にするようなイメージです。

 

体験と結びつけていかに実感できるか

 

短期集中コースや1対1の授業は、受講する方の中にある「個人的な経験」と結びつけて概念を説明できるので、双方にとって有意義な時間になります。特に直接会って話すと、より理解が深くて早いです。僕も誰かに何かを習うときは、マンツーマンで先生を独り占めしたいと考えていますし、そのほうが理解が深くて早いという実感があります。なので、そういった講座のスタイルを所望する人は賢いなと思います。ご相談は「個人的な問題」に結びつけて概念から要素を抽出するので、正直ご相談も講座もやっていることは変わりません。ひとまとまりの抽象的体系という部屋に、自分の過去(今)の体験という鍵を使って入っていく。自分の体験や経験はバーチャルではなく「実」なんです。だから、「実感」があるんですね。腹落ちするわけです。マンツーマンの授業は、個人的な話(雑談・相談)をされる方もいますが、僕はそれでいいと思いますし、そのほうがいいと思っています。実感が一番の学びと希望につながると思います。

 

希望とは何か?

 

最近「希望とは何か?」と考えます。夢と希望という風に並べられがちですが、夢と希望は全く異なります。「生きる希望」と言いますが、「生きる夢」とはあまり言いません。夢は「夢のために生きる」「夢みがち」といった風にややネガティブなニュアンスで使われがちです。しかし、希望はその人の人生や辛い状況を乗り越える支柱となりえます。この違いは何なのでしょうか?

「希望」は無の中に有を見出そうとすることです。ごくわずかな可能性だけど、それに近づこうとすることが希望です。夢と希望の違いは、わずかでも「実感」があるかです。「虚→実」の動きが希望で、夢は「虚の保持」というニュアンスが強いと考えています。例えば、「宇宙飛行士になりたい」という状態は夢ですし、宇宙を飛んでいる妄想をしている状態はまだ夢です。ただの虚です。しかし、それを「実」にしようと行動し始めれば、夢が希望に変わります。わずかな可能性に賭けるためには「実感」が必要です。微かでもその可能性を信じるための体験や経験です。しかし、実感が得られるというのは裏を返せば「虚→実」に向かっているから生まれてきます。

夢は「虚」のままである場合が多いです。本当にそれを実現・達成するために行動しない状態は、ただの夢です。夢は一時的な気休めであり、実際の行動につながりません。目的が「現実逃避」だからです。バーチャルの世界を追い求めているだけなので、「確認」しようとしないのです。「実」を避けようとするわけです。

何かを達成・実現したいという状態で、行動が伴う場合は「希望」になり、少しずつ実感が湧いてきます。そして、そのわずかな実感がさらに希望を実現に近づけます。「農家になりたい」と言って、小さくてもいいので実際に畑で菜園を始める場合は「希望」ですが、行動が伴わない場合は「夢」であり、一時的な現実逃避のために「農家になりたい」と言っているわけです。逃避と実現、どちらに向かうか。これが夢と希望の違いだと思います。歩みが遅くても、断続的でも実現に向かって行動できることが希望と言えます。中2のときの進路希望調査に「ポケモンマスター・海賊王・冒険家」と書きましたが、そこに向かい続けているなら、夢ではないのです。

 

遠くにいる誰かとひとつになれるかもしれないと考え記事を書く。この行動が「希望」になります。誰とも分かり合えないかもしれないと諦めて何もしないのはただの「夢」や「妄想」です。

にしけい

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書いている

西田 圭一郎 (にしけい)

1987年富山市生まれ。化学系工学修士。商社の開発営業職を辞めて、占いとWeb開発などを生業にしています。趣味は読書と旅とポケモン。文章を書くことが好きです。三児の父。詳しくはこちらから。

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