【電子状態の問題?】「寂しさ」の正体は何なのか?暇に耐えられるかどうか?

 

「暇」の正体は何なのか?

 

「暇」という概念を抽象化していくと「他者に実体を見せていない(ひとりの)時間」と説明できます。

例えば、会社とか学校で誰かに姿形を認識されているときは「他者に実体を見せているとき」です。

家に帰ったり、1人になったときは「他者に実体を見せていないとき」です。

「他者に認識されていると感じられるか」という要素…今日はこれを掘り下げていきます。

 

寂しさの正体は?

 

過去にも何度か考察していますが、「寂しさ」の正体とは何なのでしょうか?

(参考記事)「寂しさ」の正体は何なのだろう?
(参考記事)【壁作り】「寂しさ」は自作自演なのかもしれない…

そのヒントが「暇に対する耐性」のようなものにあると最近発見したので、考察結果を説明していきます。

 

「暇」というのは上述したように「他者に実体を見せていない(ひとりの)時間」です。

つまり、他者(人間)に認識されていません。

この暇な時間を楽しく過ごせる人もいれば、快適に過ごせない人もいて、おそらく「寂しい」と強く感じる人は「暇な時間を快適に過ごせていない」状態と言えます。

 

要するに「時間的・空間的・精神的な余白を他者に満たして欲しい」という状態です。

いつものマトリクスで大まかにまとめると下記のような図になります。

 

フェーズC(右下)の【他者に精神的余白を埋めてもらう/不快】であるときに「寂しさ」や「恋しさ」が発生するようです。

左側の【自分で精神的余白を埋められる】という人は、不快な状態だったとしても自分で自分を満たそうとするわけです。

そしてそのような行動をしていると、自然と左上(A)に移行していきます。

 

自分で自分を満たす性質は何で決まるか?

 

この「自分で自分を満たす性質」と「他者に満たしてもらう性質」の差はどこで生じるのか?

なぜ「寂しい」と言っている人は夜な夜な出かけたり、誰かに連絡したり、テレビをつけっぱなしにするのか。

一方、1人でも自分のペースで楽しんで充実している人もいます。

この違いは何なのでしょうか?

遺伝?生い立ち?環境?

 

二重スリット実験

 

これは僕の仮説なのですが、「波」と「粒子」が関係しているのではないでしょうか。

量子力学の「二重スリット実験」を簡単に紹介しておきます。

 

二重スリット実験は、光や電子などの粒子が二つの隙間を通り抜けるときにどのような挙動を示すかを調べる実験です。この実験は量子力学の基本的な実験の一つであり、波動性と粒子性の両方を持つことが示されます。

この実験では、光や電子などの粒子が、幅が狭い2つの隙間の中を通過し、後方にあるスクリーン上で観測されます。スクリーンは、通過した粒子の分布を観測するために使用されます。

二重スリット実験の驚くべき結果は、光や電子が干渉縞を形成することです。これは、二つのスリットから出た光や電子が波のような挙動を示し、スクリーン上で干渉縞を形成することが原因です。この結果は、波動性と粒子性の両方を持つことを示し、量子力学における重要な実験の一つとされています。

 

この実験では、粒子を観測するために、粒子によって観測が妨げられるという「観測の崩壊」と呼ばれる現象が起こります。つまり、粒子を観測することで、それが波動的な挙動を示すことができなくなるのです。これは、量子力学における重要な問題の一つであり、物理学者たちが今も研究しているテーマの一つです。

以上のように、二重スリット実験は、微小粒子の性質を調べるための重要な実験であり、量子力学の不思議な現象を理解するために重要な役割を果たしています。

 

わりと有名な実験なのですが、超ざっくり要約すると「光や電子は観察すると粒子になって、観察しないと波になるよ」という実験です。

 

つまり、「他者に実体を見せていない(ひとりの)時間」に耐えられない、寂しがり屋な人は「波になっている状態」に耐えられない人なのではないかということです。

 

上述していますが、光や電子は「波」と「粒子」の2つの状態が重なっていて、どちらか一方に決定しているわけではありません。

このとき「波」のような状態で過ごしている人は寂しさを感じにくく、「粒子」のような状態で過ごしている人はそれを保持するために「他者に認識して欲しい」という気持ちが強くなるのではないでしょうか。

 

類は友を呼ぶ?

 

・他者に認められたい
・自分は特別な存在だ
・誰かにかまって欲しい
・注目を浴びたい
・チヤホヤされたい
・社会的地位を高めたい
・すごいと言われたい
・褒められたい
・誰かがいると頑張れる

こういった気持ちが強い人は「粒子性」が強いと言えます。

神・鬼・霊・妖怪などの「人ではない存在」も「人々から畏敬されて認知度が増すと存在度が増す」と言われていますから、粒子性が強い存在たちなのかもしれませんね。

こういった存在にとっては「かまってくれる人」「強く認識している人」に集まるわけですし、類は友を呼ぶなので、粒子性が強い人のところに集まってくるのかもしれません。

反対に波の状態でも快適な状態な人は真逆なので、鬼も神も霊も寄ってこなさそうですね。

 

それで、この「波」か「粒子」のどちら寄りなのかは「生まれつき」な感じがするんですけど…どうなんだろうな…

途中で性質が変わることもあるのかな…。肉体も電子で出来ているから、寂しがり屋って体質なのか…?

このあたりは今後も要観察・考察する必要がありそうです。

 

にしけい

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書いている

西田 圭一郎 (にしけい)

1987年富山市生まれ。化学系工学修士。商社の開発営業職を辞めて、占いとWeb開発などを生業にしています。趣味は読書と旅とポケモン。文章を書くことが好きです。三児の父。詳しくはこちらから。

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