子供たちを観察しているとおもしろいです。
長男「あっかんべーあっかんべーあっかんべー」
次女「うわあああ!!(怒泣)」
「あっかんべー」という言葉でなぜそこまで感情を奮わせることができるのか。そもそも「あっかんべー」というのは何なのか。なぜ自分は長男に「あっかんべー」をされても怒らないし、泣き出したりしないのか。この違いは何なのか。普段あなたが日々怒り、悩み、悲しみ、喜んでいる世界。なぜそれに「反応」するのか。有象無象の現象がある中でなぜその現象を選び取って反応するのか。有象無象の現象や出来事がある中で、明らかに「一部分」の現象をあなたが切り取って、選択して、反応しています。
あなたは子供に「あっかんべー」をされたら本気で怒れますか?次女のように「この世の終わりだ…」といわんばかりに泣き叫ぶことができますか?反対に最近あなたが本気で怒ったことは何ですか?「もう終わりだ」と絶望を感じたことはありますか?
何度も言いますが、怒りも悲しみも喜びも含めて「部分」に反応しています。その「部分」は自分で選びとっています。つまりあなたにとっておそらく「都合の良いこと」なのです。長男の「あっかんべー」に絶叫する次女も、彼女にとって「都合の良い情報」を集めています。彼女が見ている世界は彼女が作っています。
例えば「あの人は一回も誰とも付き合ったことがないんだって、やばいよね」とか「あの人、また課長を怒らせてる」といった情報も「自分にとって都合の良い情報」を集めて、反応しています。これらは自分の優位性を示したり、確認したりするために集めている可能性が高いです。
まだ外の世界を知らない次女にとっては「家の中の兄弟」という世界が全てであり、その中で自分の優位性が下がることは死活問題なわけです。長男にバカにされたり、ナメられたりしないように大きな声で泣き叫ぶ行為は、彼女にとっては重要な行為なわけです。
「会社を辞めたいけれど辞められない」「自分にはあとがない」「社長の判断はおかしい」「会社の仕組みがこのままではまずい」「会社の人間は俺の仕事を理解してくれない」こういった悩みも、その人にとって「それが全て」になっているから発生します。どこまでいっても部分しか切り取れませんが、より小さな部分にとらわれることでこれらの悩みは起きます。
感情的になるとき、多くの場合が「部分」しか見えていません。そして何度も言いますが、これらの「部分」は自分を正当化するためだったり、自分を特別視するためだったり、自分の存在意義を示すためだったりするので、その本人にとっては「必要な部分」ですし「都合のいい部分」なのです。
「今の仕事を辞めることができない、なぜなら〜」に続く言葉たちは全て「自分にとって都合の良い部分を切り取った情報」になります。「やりたいことをやりたい、だけど〜」に続く言葉たちも同じです。
「自分の全て」だと思っているものは、もっと外の世界から見ると「部分」にすぎません。何度も言いますが、あなたが集めて、反応している情報や現象はあなたにとって都合の良い居心地の良い情報なのです。
自分が好きなものだけを並べる「セレクトショップ」ってありますよね。あれと同じで、みんな自分にとって居心地の良い現象を集めて表現しています。
この居心地の良い状態がずっと続けば良いでしょう。それは幸せなことです。それ以外は何も考えなくていいですし、自分が見ている世界を全てだと疑わなくてもいいので、非常に楽なんです。
「悩んでいるつもり」というのは実は一番楽なんですね。自分にとって都合の良い情報だけを集めて、エビフライのパン粉のように「自分は変わらなくていい理由」「自分以外が悪いという情報」を身にまとい、動かなくていいわけです。
あなたは自分が子供の頃に何に怒りや悲しみを感じましたか?そしてそれは今も同じように怒り、悲しむことができますか?おそらくそれはなかなかできないはずです。
それはあなたがそのころの自分よりも「外側の世界」を知っているからです。より「部分」から離れているからです。つまり今あなたが抱えている悩みや苦しみも「部分」だと認識できるはずです。
小学生のころ夢中で集めていたポケモンカード。もし当時、親にポケモンカードを捨てられたりしたら、僕は大きな声で泣き叫んで家中を破壊してまわったでしょう。
もし今同じようにポケモンカードを捨てられても、僕は大きな声で泣き叫んで実家を徹底的に破壊すると思います。なぜなら当時のポケモンカードは今、高値で売れるからです。
にしけい