視覚に与える情報が豊富で高質になったことで具体の住人が増えている可能性は高いのではないでしょうか。より具体の住人はより抽象の住人よりも幸福感を得にくい。子を産み育てることも、高額な税金を納めることも、どちらも国の未来のためになる行動にも関わらず、自分の立場以外の具体案を批判する。
— にしけい/Nishikei (@nishikei_) 2019年2月25日
情報(特に視覚情報)が多くなったことで具体的にイメージしやすくなった分、そのイメージにとらわれやすくもなったとも言える。豊富な情報により思考を停止させるか、それらを活用してさらに創作するかは人それぞれ。どちらにせよ、抽象的な概念である「幸福」はそれを具体化させればさせるほど遠のく。
— にしけい/Nishikei (@nishikei_) 2019年2月25日
「子孫を繁栄させる」という点では外で働き税金を納める事もそれにつながるし、近所でフラフラする事ももしかしたら間接的に「こういう大人もいるんだな」という学習の場になっているかもしれない。オムツを替えたり直接的に子の面倒を見ることだけを「子育て」とするのはより具体の住人に近いと言える
— にしけい/Nishikei (@nishikei_) 2019年2月25日
何が言いたいかというと、自分に合った方法、自分がやりたいことを、自分が好きなことをやることが、全体のためになるということ。貢献の方法は何でもいい。仕組みを作ることも、消費することも、おいしいものを食べるのも、好きな人とデートするのも貢献のひとつ。
— にしけい/Nishikei (@nishikei_) 2019年2月25日
ある一定の物事に対しての貢献仕方、影響の与え方って複数ルートがあるのですが
どうしても自分の生い立ちや自分が経験してきたことと似たルートを模範解答としてしまう風潮がありまして。
あとは社会の風潮や、自分の近辺の人々から得た情報を都合よく「模範解答」として採用してしまっているケースもあります。類は友を呼ぶですし、やっぱり世界が狭いとどうしても1つのルートに集約していまいがちです。
1つのルートに答えを集約した方が具体的ですし、効率的なのですが、この具体的な世界を少しでも楽にするためには一度、具体的な模範解答を捨てて「目的」という抽象的なものにもう一度立ち返ってみる必要があります。
これを「初心に帰る」と言ったりもするのですが、一度手に入れた模範解答(いわゆる軸や常識)を捨てるのはけっこう勇気が要ります。
具体の世界の住人になった場合、そこから新たなシステムやアイディアは生まれません。
「お腹が減ったらバケツに入っている魚を食べる」という固定的な解決策に頼るのは、ある意味楽です。思考・創造しなくて言い訳ですから非常に楽なのです。(八卦の坤は超具体の世界で、乾は超抽象の世界にあたります)
でも「お腹を満たすには」というより抽象ベースの世界にテーマを移さないと、バケツに魚がなくなったら途端にお腹をすかしてしまいます。
バケツに魚ではなくタコが入っていたら、そこでパニックや絶望を覚えるわけです。「なんで魚じゃないんだ!この生き物はなんなのだ!」とタコを否定し始めるわけです。
お腹を満たすという目的を果たすための方法は何でもいいのに、具体ベースの世界の住人になってしまうと、「それしか正解はない!」と言わんばかりに、ツブシが効かなくなります。
本当に方法は何でもいいのです。自分が楽しく生きていけるのであれば、極論何でも正解です。
にしけい