【思い出した】追いかけなくなったら死んでるのと同じだ

タイに来てようやくここ半年ぐらいのモヤモヤを言語化出来た気がするので、少しずつ自分のためにも書いていきます。

まず、【もっている】と【もっていない】という対比についてです。

【もっている】という状態というのは「経験したことがあると思う状態」です。

小学校の足し算を経験したことがあると思っている人は、その経験を【もっている】状態です。バンジージャンプを経験したことがないと思っている人は【もっていない】状態です。

ここでポイントになるのは「経験したことがある」と「経験したことがあると思っている」は違うということです。

たとえば、人前で大きな声を出したことがないと思っていても、実は普段から声が大きい人は【もっていない】状態なんですね。反対に、実際にスカイダイビングをしたことがなくても、だいたいこんなもんだろうと「スカイダイビングをした」と思っている人は【もっている】という状態です。

【もっている】というのは実際の経験と違い、「経験した”イメージ”をもっている」状態で、【もっていない】というのは「経験した”イメージ”をもっていない」状態です。

 

好感をもてるキャラは「憧れ」がある

 

ジョジョの吉良吉影やプッチ神父、ワンピースの黒ひげ、アンパンマンのばいきんまんといったキャラクターたちは、敵キャラながら魅力があります。

それは彼らに「憧れ」があるからです。

この「憧れ」というのは自分が【もっていない】状態で生まれます。自分はそれを経験したことがない、自分には「足りていない」「到達していない」という感覚があって、はじめて「憧れ」が生まれます。

「憧れ」の前提には【もっていない】があるのです。世界一美味しいと言われる高級チョコレートを食べた経験がないと思っているから、それに憧れるのです。

「憧れ」と似ているようで、まったく真逆のものが「妬み」です。

「妬み」の前提には、自分が【もっている】という状態があります。自分はそれを経験したと思っているのです。経験できると思っている。しかし、現実はそれに到達していない。それを埋めるために作る虚像が「妬み」です。

例えば、鳥が空を飛ぶようすを見て本気で「鳥め!!」と妬む人はいるでしょうか。どちらかといえば、合唱曲「翼をください」のように「憧れ」に近い感情は芽生えても、鳥に対して嫉妬する人はいないはずです。

鳥のように自由に空を飛んだ経験がないと思っているからこそ、純粋に憧れることができるのです。この根底には「自分は全く到達していない」という強い認識があり、ほんとうの謙虚さのようなものはここから発生します。

しかし、「ちょっと良いブランドバックをもっています」とか「他の人より収入がいいです」といった事象には「嫉妬」が発生する可能性があります。それは「自分も経験できるはずだ」という思い込みが発生するからです。

例えば、大谷翔平選手に憧れる子供たちは「自分は到達できない」「遠い存在だ」という認識があると思います。しかし、大谷選手がチームに加入することで、レギュラーをはずされたり、試合で負けた選手は「嫉妬」が発生するかもしれません。

 

憧れと妬み

 

こう考えると【もっている】という認識は、近いところ・ミクロ・部分を見ていると発生し、【もっていない】という認識は、遠いところ・マクロ・全体を見ていると発生するわけですね。

自分にもその可能性がある、自分も経験しうる、自分も経験したことがある…といった状態が【もっている】になり、「妬み」になります。

例えば、自分は付き合うことが出来なさそうな憧れの存在がいたとします。遠すぎる存在。そこには「相手」と「自分」のあいだの「距離感」を認識するためのマクロ的視点があるわけです。今から毎日素振りを200回やっても大谷翔平選手にはかなわない。これは「自分」と「大谷選手」とのあいだの「距離感」を認識できているから、「妬み」ではなく「憧れ」が生まれます。

これでもし、憧れの存在と2ヶ月ぐらい交際できるようになったとします。自分には手が届かないような憧れだった存在が今は手が届きます。その憧れの存在はいろんなところで笑顔を振りまきます。憧れの存在のこういった振る舞いに、すると「やめてよ」と妬みが生まれるようになります。

これは紛れもなく「自分」と「憧れの存在」が「近い」と認識しているときに起きます。手が届く相手だと分かった今、それを逃すわけにはいかない。執着に近いものになります。しかし、最初はそんな可能性は微塵もなかったはずです。「憧れ」だったときは、「妬み」や「執着」は生まれないのです。私には「やめてよ」と言う権利を【もっている】と考える。だから、ねたみが生まれるのです。

しかし、憧れていたときは「他の人に優しくしないで!」なんて、ひとつも思えなかったはずです。それは、自分にはそれを言う権利を【もっていない】と考えていたからです。大谷選手に「明日の試合出ないで欲しい!」と言える、思えるのは、それが言えるほど大谷選手に近づいていると「思い込んでいる」ときに起きます。

 

コンプレックスも同じようなもの

 

「コンプレックス」という概念もこれに非常に似ています。

「自分の顔にコンプレックスがある」という状態は、まったく自分の顔に希望がもてないときに発生するのではなく、わずかながら「いけるかもしれない」という希望がうまれたときに発生します。

例えば、あなたは「あの、メス(オス)ガエル、ちやほやされやがって!もっと自分もカエルたちにチヤホヤされたい!」と思いますか?カエルの群れを眺めていて、そのような感情が芽生えますか?夜寝れないほど嫉妬しますか?

「カエル」と「自分」が違いすぎることを認識していると、妬みは起きません。

例えば、すごく美しい人がいたとして、「憧れ」になるのは「自分」と「美しい人」とのあいだの「こえられない何か」を認識しているときです。

異性もそうですが「ちがいすぎる」と、妬みは起きにくいです。

しかし、「自分も頑張ればあれぐらいけるかもしれない」という対象には「妬み」が発生します。「コンプレックス」は「完全に自分には無理だ」というときには発生しません。「自分にはいけるかもしれない」という射程圏内だと思い込んでいるときに発生します。

「自分には無理だ」と「自分にもいけるかも」が複雑に絡み合っているから「コンプレックス(complex)」なんです。完全にどちらか一方だけなら、コンプレックスは存在しません。

「完全にいけるやろ」と「全くダメです、お手上げです」と思っている状態はコンプレックスが発生しないんです。

 

距離感の客観性

 

客観性というのはどこまでいっても明確なものにはならないのですが…

「憧れ」のときは「遠い存在」だと思っているので、努力し続けるか、努力を全くしないかどちらかだと思います。努力をし続けられる可能性があるので、実は「憧れ」のほうが「憧れの存在」に近づいたり、追い抜いたりしやすいです。

反対に「妬み」のときは「近い存在」だと思っているので、手を抜く可能性も出てきます。もちろん「最後の追い込み」をかけることで、到達することもできるのですが、実は「距離感」を見誤っている可能性があります。

一番きついのが「手が届く距離感」だろうと思い込んでいるときです。これは冒頭にお話した【もっている】という状態で起きてきます。

「手が届く」と思い込んではいるものの、実際の距離感が全く違ってめちゃくちゃ遠くにいる場合、いつまでたっても「到達」できません。

こういうときは、一度「到達するのは無理だ」という「憧れ」にもどしてみるといいかもしれません。「遠い存在」だと認識することで、諦めもつくかもしれませんし、もっとやってみようと思えるかもしれません。

 

わかったつもり

 

「わかったつもり」という状態は【もっている】と同じです。

自分はそれを経験して、知っている、分かっている、と思い込んでいる状態です。

しかし、実際にそれをやったことがあるわけではないので、わかっていません。

頭でっかちになったり、ある程度経験を積んで【もっている】状態になると、起きてきます。

「だいたいあれと同じようなものだろう」
「この人はそれをやらないほうがいい」
「私はこれを経験しなくてもいいだろう」

これも「妬み」と同じように、実際の「距離感」と思い込んでいる「距離感」に誤差が生じている場合、何にも到達できずに終了する場合があります。

 

インドで感じた勝手な絶望感

 

今年の3月頃にインドに行った時に、僕は勝手に絶望を感じていたんですね。本当に勝手だなと思います。今になってようやくその自分の愚かさに気づくことが出来ました。

初めてインドに行ったときは【もっていない】状態だったのです。経験したこともない、知らない世界がたくさんあることに衝撃を受けて、きつかったのですが、「生きていること」を感じられたんです。

しかし、3月ごろに行った二度目のインドでは、それが感じられなかったのです。なぜかというと、一度目と二度目のあいだにいろんな国を旅してきたので「だいたいこんな感じか」ということが分かった状態だったのです。つまり【もっている】という状態だったのです。

この【もっている】というのは「わかっているつもり」「知っているつもり」「経験したと思っている」という認識が強い状態です。しかし、これらは思い込みなんですね。

僕は「なんてインドがつまらない国になってしまったのだろう。あのときのようにワクワクできるような場所ではなくなってしまった」と絶望していました。インドのことなんてちっとも知らないのに「分かったつもり」でいたんです。わかったつもりでいると何が危険かというと「わかろうと」しなくなるんですね。だから、余計「おもしろくない」のループにハマっていってしまった。

もちろん、この10年で自分が成長したことを感じられましたし、インドが経済発展を遂げていることも感じられました。しかし、それ以上に僕は絶望していたんです。それはきっと「もうワクワクを経験できなくなった」ことへの絶望だったのだと思います。あのころのように、何も知らなかったころのように、インドを楽しめない。そういった絶望だったのです。

すごく青春がしたかった。何も知らなくて、未熟で、無様で、拙い状態だからこそ感じられるワクワク。「生」の実感。しかし、この絶望が勝手にぼくが作り出した「わかっているつもり」が作りだしたものだったんです。

とはいえ、やっぱり二度目に行った国はすぐに「あーこんな感じだな」となってしまうので、やっぱり「初めて」とか「わからないこと」を強烈に感じられる経験をしたいなと思ってしまいます。

 

勘違いと「1」への渇望感

 

僕には家族がいます。子供も3人います。会社を辞めて独立して始めた今の働き方もそれなりになんとかなってきて、もっているかもっていないかであれば【もっている】と思っています。

しかし、やはりこの「自分はそれなりにできるようになってきた」という思い込みがあるせいで、本当に腐っていたんですね。「自分は成功している」「何かを成し遂げた」というハエがたかるような腐った思い込みがあったんです。

ハエがたかるぐらいですから、栄養素もたっぷりで、ぬるぬるでべちゃべちゃです。でも、実際はなにも成し遂げていなかったんです。つまり「憧れるもの」がなかったんです。「生きている実感」はポケモンで勝てたときだけだったんです。

別の記事で詳しく書きますが、バンコクで占いをして「200タイバーツ」を受け取ったとき、すごく生きている実感がしたのです。日本円にして800円ぐらいですから、普段占いでいただいている金額に比べたら、全然ちがいます。でも、すごく嬉しかった。僕にとっての原点とも言える原体験を思い出して、僕は何に「生」を感じるのか、ようやく分かったのです。

やっぱり僕は「今まで存在しそうでしなかった可能性」が「存在する瞬間」に立ち会えるのが好きなのだと思います。

よく「ゼロからイチを生み出す」と言いますが、僕はこれは違うと考えていまして。実際は「0.000001」ぐらいの1に満たないわずかな可能性があるんですよ。これが「1」になるのが好きなんだと思います。

僕はある程度自分がそれなりに人並みの生活を送れるようになったことで、1を生み出して「いかに1を5、10にするか」を考えていましたが、やっぱりこれは「生きていること」をあまり感じられないんですね。冒険しないとだめなんですね。

だから、何かを生み出そうと憧れている人に憧れていたのだと思います。それは息子だったり、自分よりも若い世代だったり、「1にしようとしている人たち」だったり。

すごく嫌な言い方かもしれませんが、ストレートに表現するとしたら、「未熟さ」に憧れていたのです。自分もめちゃくちゃ未熟なのに、です。非常に滑稽な話です。

でも、ようやく改めて「自分が喜ぶこと」が分かった、思い出せた気がします。タイに来てよかった。これがまた、会う人たちが若い人が多いんです。

僕にもまだまだ「1」にしていないことがいっぱいあります。追いかけなくなったら死んでるのと同じだ。生きている。生きている。それを噛み締められる出来事にขอบคุณ。

 

バイクの風がきもちよかった

 

にしけい

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書いている

西田 圭一郎 (にしけい)

1987年富山市生まれ。化学系工学修士。商社の開発営業職を辞めて、占いとWeb開発などを生業にしています。趣味は読書と旅とポケモン。文章を書くことが好きです。三児の父。詳しくはこちらから。

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