インド旅行記2−5 光を観るから観光

ごめんなさい。ひとつ前の記事で「インドは〜」と主語が大きくなっていましたが、全然違いました。

主語が大きくなるときって全然それについてごく一部しか知らないときに起きるんですよね。

すごく発展しているように見えるのは確かなのですが、やっぱりニューデリーの市街地に近づくとバクシーシの子供達や物売りの男たちが一定数いました。

いくら怪しい格好をしているとはいえ、「観光地」の近くにいる「外国人」なのですから、「観光客」として認知されるわけです。

僕自身は日本にいるときと何も変わらないつもりでいても、やはり「場」が変わると「立場」が変わるわけです。

いつもの黒い服で渋谷の街を歩いていても全く何も違和感を感じられませんが、地方に行くと稀有な目で見られたり、声をかけられたり。

「立場」というのは文字通り「立っている場」で変わり、自分自身は変わらなくても場によって結果が変わってきます。

観光地に来ているから観光客なんです。エアロシティにも外国人はいっぱいいましたが、彼らの多くは「ビジネス」という感じでした。スーツをビシッと決めて商談や多様なコミュニケーションをとる。

必ずではありませんが、「場」は同時に「目的」でもあります。なぜその場にいるのか…です。

「目的がない」と言いながらもインドを選んでいる時点で無意識のうちに僕の中に何か目的があったのでしょう。

意識的な目的は不明瞭でも「なんとなく」の奥に絶対的に揺るがない目的があるのかもしれません。

光を観る

 

「観光」というのは文字通り、その国や地域の「光」を観る行動です。

その国の1番良いところ、特徴的なところ、ピカッと光るところを見にいくわけです。

なので、観光名所というのは「部分」を観る行為です。これは付き合いたてのカップルと似ています。

最初はお互いの良いところしか見えないし、見せないのです。これは「観光」と同じです。現地の人たちはとにかく「良いところ」を見せようとしますし、旅行会社も旅行雑誌やメディアも良いところだけを「特集」するわけです。

恋愛でもしばらくすると相手の嫌なところが見え始めます。今までは良い部分だけ、光だけを見ていたのに、急にそれ以外の部分が見え始める。

旅行先で行った街を気に入りそのまま住んでみると、全然違った…という話をよく聞きます。

しょうがないっすよね。「光」ってあっという間に駆け抜けて消えちゃいますから。文字通り「光速」です。

それで、光じゃない部分が見えると「なんだこの国は、全然ダメだ」となるわけです。

そう思うと、インドって光もクソもなくて、割と剥き出しな国だよなぁと思います。生の人々の生活を隠そうとせず、ありのままと観光地が混ざり合っている。とても近い距離にある。そういう国なのかもしれません。

僕が好きな国の多くはもしかしたら、割と「生っぽい国」なのかもしれません。良いところじゃなくて、悪くて汚い部分も剥き出しでそれを突きつけてくる。そういう国が好きなのかもしれません。

国じゃなくても、人もそういう剥き出しの隠しきれない人が好きです。綺麗とか、うまくやるとか、賢い…というよりも、素直に生きている人たちが好きです。なんとなく、インドに来た理由が見えてきた気がします。

にしけい

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書いている

西田 圭一郎

1987年富山市生まれ。工学修士。
商社の開発営業職を辞めて、占いや相術を生業にしています。本と旅とポケモンと文章を書くことが好きです。黒も好きです。どの国に行ってもスチューデント扱いされます。

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