モンゴルのお墓と国民性(モンゴル旅行記201905その9)

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パスポートがないなりにも拘束されているわけではないので、比較的自由に観光することができた僕は

ボスから「ニシサン、何かモンゴルでミタイモノアル?」と聞かれ、すかさず「お墓!」と答えました。

日本でもときどき一人で霊園を3時間ぐらい散歩するのですが…

モンゴルのお墓事情も知りたかったので、モンゴルの霊園を案内してもらうことにしました。

この日はドライバーさんが変装用にジャケットとハンチング帽を貸してくれました。

季節外れの雪が降る中、霊園をまわります。

 

霊園といっても、ほとんどだだっぴろい部屋に墓石っぽいものがゴロゴロ置かれており

 

モンゴルはよっぽどのことがない限り土葬なのと、土葬は土葬でも穴掘りが浅いのでところどころに背骨とか首の骨っぽいところがコロコロと転がっています。

僕も知らず知らず歩いていると、骨を踏んでしまいガイドさんに「骨踏んデル!」と注意されました。

よくわからない紫色のキノコが生えていたり、墓石はボロボロだったり、日本の霊園とは比べ物にならないぐらい管理されていませんでした。

どうもこの街自体が古戦場跡地に出来上がっているらしく、霊園ならまだマシで、死体がゴロゴロ転がっている土地の上に無理やり街を作ったので、街自体が死体の上にあるのだとか。

ガイドさんは「サイレントタウン」と呼んでいましたが、霊感がほとんどない僕でもヤバい感じがしました。

これ早朝に行ってこんな感じだから、夜に行ったらどうみても何かしらやられる感じの雰囲気です。

だだっぴろい土地に1000人ぐらいの遺体が埋められているとガイドさんは話してくれましたが

お墓の形はとにかくバラバラです。

モンゴルでは今の50-60代ぐらいの方々は比較的お墓まいりをしますが、その子供世代はほとんどしないそうです。

お墓を作ろうと思う若い人もほとんどいないようで、自分が死んでも作らなくていいという人が大半で、お墓の重要性がどうも低いようです。

お墓の機能としては「相続」があります。続けること。続かせること。

お墓をないがしろにすることは、それを放棄していること。それはそれでいいかもしれません。

でも、ウランバートルで見た大渋滞の様子や、手相鑑定会の様子を見る限り、どうもモンゴルには「刹那的」で「利己的」な考え方の人が多いように見え、それがこの霊園を見た時に点と点でつながりました。

肥満体型、高血圧な人が多いのも特徴的で、なんというか「その代で終わる」ことを自分たちが望んでいるというか、今の自分さえよければいいという個人主義のようなものをお墓から強く感じました。

チベット仏教は結構密教色が強く、護摩を焚いたり、マントラを唱えたり、ガシガシ行動して現世で流れを変えようというようなイメージがありますが

本来これらは「空」を目指す上でのテクニックな気がするのですが、モンゴルではかなり俗物化しているような気がしました。お金を手に入れるにはどうしたらいいかとか、物質的な豊かさのために使われているような気がしました。

もちろんこれは日本でも言えることなのですが、某宗教団体でも感じたように真の目的を理解して仏教の教えを実践している人たちは少ないような気がします。

墓相の目的も「肉体の死を認めること」であり、それは生死の境界線を濃くすることが目的ではなく、自分や肉体や誰かがあくまで「四次元」に存在することを強く認識するための儀式だと思っています。

バーチャル空間で出会っている僕たちの肉体はゲームオーバーにはなったけれど、実は本体は生きている。

ゲームオーバーになったことが明確になれば、次のプレイヤーとしてまたやり直せる。肉体の消滅を明確にしないと、いつまでも中途半端にゲームをするしないの世界をさまよってしまう。

お墓を作り「切断すること」で「つながっていくこと」ができる。矛盾するようですが、墓相はそんな世界な気がします。

「今だけ」「私だけ」「自分の国だけ」という考えも悪くはないのですが、結局そうではないということを最終的に気づかされるので、肉体や現状の保持にしがみつけばしがみつくほど、引き剥がされるときに強い痛みが伴います。まるでブラジリアンワックスで陰毛を絡みとり除毛するがごとく、しがみつけばしがみつくほどキツいのです。

霊園を見て、モンゴル人の国民性が垣間見えたような気がしました。

ありきたりなことを言いますが、やはりこうやって海外の文化や風習に触れることで改めて自分の国や文化を理解することができます。

やはり、ひとつを知りたいのであれば、ふたつみっつといろいろと見てみなくてはなりませんね。

にしけい

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